北条氏政(19/20)(1589年)

ここでは、1589年に、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1589年(天正(てんしょう)十七年)2月、由良国繁(ゆら くにしげ)が従属(じゅうぞく=他の者の下に、つき従うこと)しました。同月、宿老(しゅくろう=重臣(重要な職務にある臣下))・板部岡融成(いたべおか ゆうせい)を沼田領(ぬまたりょう=現在の群馬県沼田市西倉内町(ぐんまけん ぬまたし にしくらうちまち))問題裁定(さいてい=物事の是非などを考えて決定すること)のために上洛(京都に入ること)させました。この頃、氏政は政務(せいむ=政治上の事務)に復帰しました。3月、長尾顕長(ながお あきなが)が従属しました。6月、氏直(うじなお)は、十二月の氏政上洛を秀吉(ひでよし)に伝えました。7月、沼田領の三分の二を割譲(かつじょう=所有物の一部をさいて他にゆずること)し、氏邦(うじくに)に管轄(かんかつ=与えられた権限によって一定範囲を支配すること)させました。8月、五男・直重(なおしげ)は、千葉家(ちばけ=現在の千葉県)の家督(かとく=その家をつぐべき子)をつぎました。同月、佐倉領(さくら りょう=現在の千葉県佐倉市)の諸役(いろいろの役目)を再規定(さいてぎ=定義をし直す)しました。9月、氏邦、宿老・猪俣邦憲(いのまた くにのり)、沼田領の支配を開始しました。同月、佐倉領での寺領(じりょう=寺の所有する領地)相論(そうろん=互いに論じること)を裁許(さいきょ=役所などが裁決して許可を与えること)しました。10月、猪俣邦憲、真田方(さなだがた)名胡桃城(なぐるみじょう=現在の群馬県利根郡みなかみ町下津(ぐんまけん とねぐん みなかみまち しもづ)にあった城)に軍勢を派遣(はけん=ある使命をもっておもむかせること)(明胡桃城奪取事件(だっしゅじけん))しました。11月、氏直、沼田城に家臣(かしん=家来)を派遣しました。11月、羽柴秀吉(はしば ひでよし)、北条家(ほうじょうけ)使者(ししゃ=使いの者)・石巻康敬(いしまき やすまさ)らを拘束(こうそく=行動の自由をしばること)しました。秀吉は、氏直宛に討伐(とうばつ=軍勢をさしむけて、反抗する者を攻めうつこと)を通告(つうこく=相手方に告げ知らせること)する条書(じょうしょ=箇条書きにした文書)を出しました。12月、秀吉条書を請け取りました。氏直、秀吉家家臣・津田盛月(つだ もりつき)・富田一白(とみた いっぱく)に返書を出しました。同月、氏政・氏直・氏規(うじのり)、徳川家康(とくがわ いえやす)に取り成しを要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)しました。同月、領国防衛(支配する国をふせぎまもること)のための軍勢配備(ぐんぜい=軍の勢力を手配して準備すること)を開始しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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