北条氏政(15/20)(1583年)

ここでは、1583年に、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1583年(天正(てんしょう)十一年)1月、氏政と氏直(うじなお)が、厩橋領(まやばしりょう=現在の群馬県前橋市(ぐんまけん まえばしし))を攻撃しました。5月、佐野領(さの りょう=現在の栃木県佐野市(とちぎけん さのし))を攻撃しました。6月、江戸(えど=)・関宿城(せきやどじょう=現在の千葉県野田市関宿三軒家(ちばけん のだし せきやどさんげんや)にあった城)で北条氏秀(ほうじょう うじひで)が亡くなり、氏秀の嫡子・乙松丸(おとまつまる)の後見(こうけん=年少の家長・主人などの後ろだてとなって補佐すること)を務めました。関宿領(せきやどりょう=現在の千葉県野田市関宿)の支配を管轄(かんかつ=権限をもって支配すること)しました。7月、四男・氏房(うじふさ)、岩付領(いわつきりょう=現在の埼玉県さいたま市岩槻区(さいたまけん さいたまし いわつきく))の支配を開始しました。8月、氏直と徳川家康(とくがわ いえやす)の次女・督姫(とくひめ)が結婚(けっこん)しました。9月、北条氏秀衆小熊孫七郎に「着到帳(ちゃくとうちょう=急事に出陣した諸将の名とその手勢を記入した、奉行所側の帳簿)」を規定(きてい=物事を一定の形に定めること)しまいた。同月、氏直、厩橋城(まやばし じょう=現在の群馬県前橋市(ぐんまけん まえばしし)にあった城)を攻略(敵陣を攻め取ること)し、毛利北条芳林が従属(じゅうぞく=他のものの下に、つき従うこと)しました。11月、徳川家康から羽柴秀吉(はしば ひでよし)の「関東惣無事(かんとう そうぶじ=豊臣秀吉が大名間の私闘(個人的なうらみによって争うこと)を禁じた法令)」要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)を伝達されました。同月、由良国繁(ゆら くにしげ)と長尾顕長(ながお あきなが)が離叛(りはん=従っていたものなどが、そむきはなれること)しました。12月、氏直の使者、京都の吉田兼和(よしだ かねみ)に到着しました。この頃、氏政は相模守(さがみのかみ)に遷任(にんせん=律令官制で、異なる官職・任務、または任地にうつしかえること)、氏直は左京大夫(さきょうのだいぶ=左京職の長官)に任官(にんかん=官に任ぜられること)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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