北条早雲(8/8)(1512年~1519年)

ここでは、1512年から、北条早雲(ほうじょう そううん)が亡くなる、1519年までにたずさわったことを勉強します。

1512年(永正(えいしょう)九年)8月13日、宗端(そうずい=北条早雲)は、相模国岡崎城(さがみのくに おかざき じょう=現在の神奈川県平塚市(かながわけん ひらづかし)と伊勢原市(いせはらし)の境にあった城)の三浦道寸(みうら どうすん、1451~1516=三浦義同(よしあつ))を攻め、道寸を住吉城(すみよし じょう=現在の神奈川県逗子市にあった城)に追い、鎌倉(かまくら=現在の神奈川県鎌倉市)に入りました。10月、三浦半島(みうらはんとう=現在の神奈川県南東部にある半島)に対する抑え(おさえ=支配下)として相模国玉縄城(さがみのくに たまなわ じょう=現在の神奈川県鎌倉市)を築城(ちくじょう=城をきずくこと)しました。

1513年(永正十年)9月29日、三浦道寸の娘婿(むすめむこ=娘の夫)・太田資康(おおた すけやす、1476~1513)が、三浦半島に出陣(しゅつじん=戦場に出て行くこと)したが、宗端に敗れ討死(うちじに=戦場で敵と戦って死ぬこと)しました(享年(きょうねん=死んだ時の年齢)38)。

1515年(永正十二年)この年、北条氏綱(ほうじょう うじつな、1487~1541=北条氏2代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))の子・北条氏康(うじやす、1515~1571=北条氏3代当主)が生まれました。

1516年(永正十三年)7月、扇谷上杉朝興(おうぎがやつ うえすぎ ともおき、1488~1537=扇谷上杉家13代当主)が、三浦道寸救援(きゅうえん=危険におちいっている人を助けること)のため玉縄城を攻(せ)め、宗端によって撃退(げきたい=攻めてきた敵などを、逆に攻撃(こうげき)して追い払(はら)うこと)されました。また同月11日、宗端は、三浦道寸・義意(よしおき、1496~1516)父子(ふし=父と子)を相模国新井城(あらい じょう=現在の神奈川県三浦市(みうらし)にあった城)で破り、父子自刃(じじん=刃物(はもの)を使って自らの生命を絶つこと)しました。

1518年(永正十五年)宗端は、韮山城で家督(かとく=あととり)を氏綱にゆずりました。また、武士の心得を説いた「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじょういっかじょう)」という家訓書と虎の印判(いんばん=はんこ)を残しました。10月8日、氏綱が、伊豆国長浜(いずのくに ながはま=現在の静岡県熱海市(しずおかけん あたみし))と木負(きしょう=現在の静岡県沼津市(ぬまづし))にはじめて虎印判状(とらいんばんじょう=虎の印判が押された書状)を出しました。

1519年(永正十六年)8月15日、宗端は、韮山城で亡くなりました(享年88)。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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