ここでは、1598年~1600年までに、加藤清正(かとう きよまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1598年(慶長(けいちょう)三年)11月、浅野幸長(あさの よしなが)とともに蔚山(ウルサン=現在の大韓民国蔚山広域市(だいかんみんこく ウルサンこういきし))の諸営(しょえい)を焼き釜山(プサン=現在の大韓民国釜山広域市(プサンこういきし))へ到着しました。12月、博多(はかた=現在の福岡県福岡市)へ凱旋(がいせん=戦いに勝って帰ること)しました。
1599年(慶長四年)2月、外征諸将(がいせいしょしょう=外国へ兵を出して戦った多くの将軍・大将)と大坂城(おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城にある城)に会し(かいし=集まり)、秀吉の葬儀(そうぎ)を行いました。閏3月、利家(としいえ)没(ぼつ=亡くなった)の夜、六将(ろくしょう=浅野幸長、福島正則(ふくしま まさのり)、黒田長政(くろだ ながまさ)、細川忠興(ほそかわ ただおき)、池田輝政(いけだ てるまさ)、加藤嘉明(かとう よしあき))とともに石田三成(いしだ みつなり)を襲殺(しゅうさつ=おそって殺す)しようとしましたが、三成は伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふ きょうとし ふしみく))に逃れて家康(いえやす)にすがりました。この年、家康の養女(ようじょ=他家からもらって育てた女の子)・水野忠重(みずの ただしげ)の女(むすめ)を室(しつ=身分分ある人の妻)として迎(むか)えました。
1600年(慶長五年)7月中旬、毛利輝元(もうり てるもと)から西軍(せいぐん)勧誘(かんゆう=誘い入れること)の書状(しょじょう=手紙)を受け取りました。8月、家康に使いを立て、9月10日に返書(へんしょ=返事の手紙)を受け取りました。9月17日、豊後杵築城(ぶんご きつきじょう=現在の大分県杵築市杵築(おおいたけん きつきし きつき)にあった城)を救援(きゅうえん=災害・危険などにあっている者を助けて力づけること)のため引地村(ひきちむら)まで進軍(しんぐん=軍を進めること)しました。9月21日、宇土城(うと じょう=現在の熊本県宇土市(くまもとけん うとし)にあった城)を囲み、同月23日、開城(かいじょう=降伏して城を敵に明け渡すこと)させました。10月、関ケ原(せきがはら=現在の岐阜県不破郡関ケ原町(ぎふけん ふわぐん せきがはらちょう))の論功行賞(ろんこうこうしょう=手柄の有無・大小を論じ定めて、それに応じた賞を与えること)で五十二万石(のち検地(けんち=土地調査)して七十三万石余り)の太守(たいしゅ=幕府の高官や領主のこと)となり、肥後守(ひごのかみ=現在の熊本県)に任じられました(にんじられました=ある職務・役目につかせる)。この年、嗣子(しし=あととり)・忠広(ただひろ)が生まれました。
以上諸説あり。