ここでは、1583年~1585年までに、加藤清正(かとう きよまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1583年(天正(てんしょう)十一年)、2月16日、滝川(たきがわ)征伐(せいばつ= 罪ある者や反逆する者を攻め討つこと)で、伊勢亀山城(いせかめやま じょう=現在の三重県亀山市本丸町(みえけん かめやまし ほんまるちょう)にあった城)を攻(せ)め、敵の猛将(もうしょう=強くて勇気のある将軍)・近江新六(おうみ しんろく)を突き伏せました(急に顔などを伏せる)。4月20日、賤ケ岳の合戦(しずがたけ の かっせん=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)の賤ケ岳付近で起きた羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)との戦い)で、敵将(てきしょう=敵軍の大将・将軍)・山路将監(やまじ しょうげん)、戸波隼人(となみ はやと)などを討ち取り(うちとり=武器などを使って敵を殺す)、七本槍(しちほんやり=賤ケ岳の合戦で功名(こうみょう=手柄を立てて名をあげること)をあげた7人の豊臣家臣の武将)の功名を立てました。知行(ちぎょう=武士に支給された土地)を三千石(ごく=土地の単位。1石=3.3平方メートル、三千石=9900平方メートル。)賞賜(しょうし=賞として金品を与えること)され、物頭(ものがしら=弓組・鉄砲組などを統率する長)に昇進(しょうしん=官位・地位があがって行くこと)し、鉄砲(てっぽう)五百挺(ちょう=鉄砲の単位)、与力(よりき=大名や有力武士に従属する下級武士)三十人の将(しょう=軍隊を率いるもの)となりました(このとき、福島正則(ふくしままさのり)が五千石を賞賜されたのに対し、清正は上申(じょうしん=意見を上の者に申し述べること)して、のち正則と同額になりました)。
1585年(天正十三年)6月、四国征伐に軍監(ぐんかん=軍事の監督をする役職)を命じられ、伊予三ケ浜城(いよみがはま じょう=現在の愛知県(あいちけん)にあった城)の攻略(こうりゃく=敵陣を攻め取ること)に参戦(さんせん=戦争に参加すること)しました。ついで小早川隆景(こばやかわ たかかげ)とともに道後城(どうご じょう=愛媛県松山市南白水(えひめけん まつやまし みなみはくすい)にあった城)を攻めおとしました。
以上諸説あり。