ここでは、1587年10月~12月に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1587年(天正十五年)10月、成政、山之上三名衆(やまのうえ さんめい しゅう=現在の熊本市の西北、金峰(きんぽう)山のふもと一帯を支配していた田尻氏(たじり し)、牛島氏(うしじま し)、内田氏(うちだ し)のこと)に加増目録(増加した領地などの品名、内容を書き並べて見やすくしたもの)を与えました。同月、成政、小代下総守親泰(しょうだい しもうさのかみ ちかやす)に加増知行目録(増加した土地の内容を書き並べて見やすくしたもの)を与えました。田中城(たなか じょう=別名和仁城、現在の熊本県玉名郡三加和町和仁(くまもとけん たまなぐん なごみまち かみわに)にあった城)主・和仁親実(わに ちかざね)は弟の親範(ちかのり)・親宗(ちかむね)と、親実の姉婿(あねむこ=姉の夫)辺春城(へばる じょう=別名坂本城、現在の熊本県玉名郡三加和町山十町(やまじっちょう)にあった城)主・辺春親行(へばる ちかゆき)らと田中城に籠城(ろうじょう= 城などの中にたてこもって敵を防ぐこと)し、成政に対抗(たいこう=互いに張り合うこと)しました。秀吉(ひでよし)、今後の見せしめのため籠城軍を一人も逃さず、皆殺(みなごろ)しにせよと命じました。成政、立花宗茂(たちばな むねしげ)・鍋島直茂(なべしま なおしげ)ら一万余騎(いちまんよき=一万人ちょっとの騎兵(きへい=馬に乗って戦う兵士))で田中城を攻囲(こうい=せめこむこと)しました。11月、成政、久世又助(くぜ またすけ)・前野与助(まえの よすけ)・神野平左衛門(かの へいざいもん)・丹羽吉右衛門(にわ きちえもん)に知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう
=主君から家臣に対し与えられた文書)を与えました。同月、成政、石塚藤三郎(いしづか ふじざぶろう)に知行方目録(ちぎょうかたもくろく=家臣に支給した土地や職務などの一覧)を与えました。また、前野久三郎(まえの きゅうざぶろう)に安堵状(あんどじょう=家臣に支給した土地や職務などの約束を保証した文書)を与えました。12月、成政、田中城を攻略(こうりゃく=攻撃(こうげき=進んで敵を攻め撃つこと)してうばい取ること)し、和仁親実らの首級(しゅきゅう=討ちとった敵の首)を秀吉のもとに送りました。また、成政は、12月中旬までには一揆(いっき=幕府などに反抗し、地侍・農民・信徒らが起こした暴動)を鎮圧(ちんあつ=力をもっておさえつけしずめること)し、国人(こくじん=その地方の住民)たちを斬首(ざんしゅ=罪人の首(頭部)を刃物等により胴体から切断する)しました。同月、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、田中城の落城(らくじょう=城を攻めとったこと)を成政に報告しました。同月、成政、島津兵庫頭(しまづ ひょうごのかみ)に書状(しょじょう=手紙)を与えました。また、鬼塚刑部に安堵状を与えました。
以上諸説あり。