ここでは、1580年~1581年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1580年(天正(てんしょう)八年)9月、信長、成政を越中(現在の富山県(とやまけん))に移し、神保長住(じんぼう ながずみ)を助勢(力を添えて援助すること)しました。越中新川郡(えっちゅう にいかわぐん=現在の富山県のうち、富山市街の一部を除く神通川(じんずうがわ=現在の富山県富山市(とやまし))以東および、富山市草島(くさじま=現在の富山県富山市草島)・金山新(かなやましん=現在の富山県富山市金山新)・金山新中(かなやましんなか=現在の富山県富山市金山新中)・金山新東(かなやましんひがし=現在の富山県富山市金山新東)・金山新西(かなやましんにし=現在の富山県富山市金山新西)・金山新南(かなやましんみなみ=現在の富山県富山市金山新南)・金山新北(かなやましんきた=現在の富山県富山市金山新北)・羽根(はね=現在の富山県富山市羽根)・高田(たかた=現在の富山県富山市高田)および八尾町西神通(やつおまちにしじんづう=富山県富山市八尾町西神通)の一部)は越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の家来・河田長親(かわだ ながちか)が権限をもっていました。秋、成政、常願寺川(じょうがんじがわ=現在の富山県中新川郡立山町(なかにいかわぐん たてやままち)および富山市を流れ富山湾に注ぐ一級河川)の馬瀬口(ませぐち=富山県富山市馬瀬口)に佐々堤(さっさてい=現在の富山県富山市中番)を築きました。
1581年(天正九年)2月、成政、信長より越中(えっちゅう=現在の富山県)支配をまかされ富山城(とやまけん=現在の富山県富山市丸の内にあった城)を本拠地としました。家臣(かしん=家来)たちも移ったため、小丸城(こまるじょう=現在の福井県越前市にあった城)は廃城(はい じょう=城が城として使われなくなること)となりました。2月、成政、有沢図書助(ありさわ ずしょのすけ)と斎藤豊左衛門(さとう とよざえもん)に知行宛行状(主君から家臣に対し与えられた文書)を与えました。同月、信長、京都禁裏東門外で馬揃え(うまそろえ=騎馬を集めてその優越を競いあう武家の行事)の儀式(ぎしき=一定の作法・形式にのっとって行われる行事)を催しました(かいさいしました)。成政らも参列しました。その留守中の3月、上杉景勝、織田方の小出城(こいでじょう=現在の富山県富山市水橋小出にあった城)を攻略(こうりゃく=攻撃して奪い取ること)しました。成政、帰国しました。8月、成政、埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう=現在の富山県小谷部市埴生(とやまけんおやべしはにゅう)にある寺社)に三百俵の地を寄進(きしん=神社や寺院に金銭や物品を寄付すること)しました。10月、成政、有沢図書助に知行宛行状を与えました。
以上諸説あり。