ここでは、1575に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1575年(天正(てんしょう)三年)5月、織田信長(おだ のぶなが)、長篠の戦い(ながしののたたかい=現在の愛媛県南設楽郡鳳来町(あいちけん みなみしたらぐん ほうらいちょう)で行われた織田・徳川(とくがわ)軍と武田(たけだ)軍との戦い)で、成政は三千人の鉄砲隊(てっぽうたい)を指揮し、武田勝頼(かつより)を撃破(げきは)しました。8月、信長、成政らを率いて、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市(ぎふけん ぎふし)の金華山(きんかざん)にあった城)を出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)し、越前(えちぜん=現在の福井県北東部(ふくいけん ほくとうぶ))へ向かいました。同月、一乗谷城(いちじょうたに じょう=現在の福井県福井市城戸ノ内町(ふくいし きどのうちちょう))に入城(にゅうじょう=城に入ること)しました。9月、北庄城(きたのしょう じょう=現在の福井県福井市にあった城)に入城しました。同月、信長は、柴田勝家(しばた かついえ)を北陸(ほくりく=現在の新潟県(にいがたけん)、富山県(とやまけん)、石川県(いしかわけん)、福井県の4県[)方面の総大将として越前八郡(えちぜん はちぐん=坂北・坂南・吉田・足羽北・足羽南・丹生北・今北西・今北東の八郡)を与え、北庄城主に命じました。越前府中(えちぜんふちゅう=現在の福井県武生市(たけふし))と今立(いまだて)・南条(なんじょう)二郡の十万石に不破光治(ふわ みつはる)・前田利家(まえだ としいえ)・成政の三人「府中三人衆」を配置しました。一人三万三千三百石を知行(ちぎょう=土地・財産の直接支配)しました。成政、小丸城(こまる じょう=現在の福井県越前市五分市町(こぶいちちょう)にあった城)を築きました。成政、比良城(ひら じょう=現在の愛知県名古屋市西区比良(あいちけん なごやし にしく ひら)にあった城)から小丸城に移りました。同月、信長、府中三人衆に今立・南条郡にある(織田大明神をのぞく)寺社領の没収(ぼっしゅう=強制的に取り上げること)を命じました。同月、信長、柴田勝家と府中三人衆に掟書(おきてがき)をくだしました。10月、府中三人衆、高瀬村(たかせむら=現在の越前市高瀬にある寺社)の宝円寺(ほうえんじ)の古墳(こふん)の保護を命じました。同月、府中三人衆、大滝神郷紙座衆に越前和紙(えちぜんわし=現在の越前市今立で製造される和紙)の特権(とっけん=ある身分・資格のある者だけがもっている権利)と保護を確認しました。12月、府中三人衆、宅良慈眼寺(たくら じげん じ=現在の福井県南条郡今庄町小倉谷(なんじょうぐん みなみえちぜんちょう おぐらたに))と同塔頭月叟寺(福井県南条郡今庄町小倉谷にある寺社)に連署状(れんしょじょう=他者の署名に連続して署名してある書状)をくだしました。
以上諸説あり。