佐々成政(3/17)(1561年~1567年)

ここでは、1561~1567年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1561年(永禄(えいろく)四年)成政は、織田信長(おだ のぶなが)に従い、森部の戦い(もりべのたたかい=現在の岐阜県安八郡安八町(ぎふけん あんばちぐん あんばちちょう)で行われた織田信長軍と斎藤龍興(さいとう たつおき)軍との戦い)に参陣(さんじん=戦いに加わる)しました。この戦いで、前田利家(まえだ としいえ)は、戦功(せんこう=戦争で立てたてがら)をたて、帰参(きさん=帰って来ること)が許されました。

1562年(永禄(えいろく)五年)5月、軽海の戦い(かるみのたたかい=現在の岐阜県本巣市軽海(もとすし かるみ)で行われた織田軍と斎藤軍との戦い)で利家と協力して稲葉山城(現在の岐阜県岐阜市天守閣)主・斎藤龍興の家臣(かしん=けらい)・稲葉又右衛門(いなばまたえもん)を討ちとりました。

1563年(永禄(えいろく)六年)7月、信長、小牧城(こまき じょう=現在の愛知県小牧市堀の内(あいちけん こまきし ほりのうち)にあった城)を築き、9月、清須城(きよす じょう=現在の愛知県清須市一場(きよすし いちば)にあった城)から小牧城に移りました。

1566年(永禄(えいろく)九年)9月、信長、築城(ちくじょう=城を築くこと)した墨俣城(すのまたじょう=現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣(おおがきし すのまたちょう すのまた)にあった城)に入城しました。成政も総勢300を率い入城しました。また、成政は、鉄砲隊(てっぽうたい)300を指揮しました。

1567年(永禄(えいろく)十年)8月、信長、小牧城から岐阜城(ぎふ じょう=現在の岐阜県岐阜市にあった城)に居城(きょじょう=領主が日常住んでいる城)を移しました。この年、成政、信長の黒母衣衆(くろほろしゅう=信長に近侍(きんじ=主君のそば近くに仕えること)する家臣(馬廻(一軍の大将の乗っている馬の周囲)、小姓(将軍や藩主などの身辺で雑用をつとめる者))から選り抜かれた(えりぬかれた=多くのものの中から、すぐれたものやよいものだけを選んで抜き出す)二つの集団の一方。もう一方は赤母衣衆(あかほろしゅう)。)の筆頭(列記した人名中の1番目)となりました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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