ここでは、1600年~1603年までに、井伊直政(いい なおまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1600年(慶長(けいちょう)五年)6月、直政は、家康(いえやす)の会津(あいず=現在の福島県西部の会津盆地を中心とする地域)征討(せいとう=反逆(はんぎゃく)する者や服属(ふくぞく=付き従うこと)しない者をせめうつこと)に従軍(じゅうぐん=軍隊に付き従ってともに戦地へ行くこと)しました。7月、家康、下野国小山(しものつけのくに おやま=現在の栃木県小山市(とちぎけん おやまし))にて、石田三成(いしだ みつなり)挙兵(きょへい=兵を集めて戦いを起こすこと)の知らせを受けました。8月、直政は、軍監(ぐんかん=)として尾張国清洲城(おわりのくに きよすじょう=現在の愛知県清須市一場(あいちけん きよすし いちば)にあった城)に入りました。9月、家康率いる東軍と、三成率いる西軍が、美濃国関ケ原(みののくに せきがはら=現在の岐阜県不破郡関ヶ原町(ぎふけん ふわぐん せきがはらちょう))で激突しました(関ヶ原の合戦)。この時、直政は、家康の四男で娘婿(むすめむこ=娘の夫)の松平忠吉(まつだいら ただよし)とともに先鋒(せんぽう=軍隊の一番先に立って進むもの)・福島正則(ふくしま まさのり)隊を越えて先陣(せんじん=一番乗り)を切りました。その後、直政は、西軍・島津義弘(しまづ よしひろ)隊の銃撃(じゅうげき=銃(じゅう)をうって攻撃(こうげき)すること)で負傷(ふしょう=けがをすること)しました。10月、直政は、家康と黒田官兵衛(くろだ かんべえ=黒田如水(くろだ じょすい))、毛利輝元(もうり てるもと)らと土佐国浦戸城(とさのくに うらどじょう=現在の高知県高知市浦戸(こうちけん こうちし うらど)にあった城)の受け取りのため、家臣(かしん=けらい)を派遣(はけん=ある使命をもっておもむかせること)する一方、西軍についた真田昌幸(さなだ まさゆき)・幸村(ゆきむら=信繁(のぶしげ))父子(ふし=父と子)の助命(じょめい=命を助けること)のために尽力(じんりょく=力をつくすこと)しました。
1601年(慶長六年)この年、直政は、近江国(おうみのくに= 現在の滋賀県 )に十八万石(じゅうはちまんごく=主君(しゅくん=君主)から臣下(しんか=けらい)に与えられた土地)を与えられ、近江国佐和山城(おうみのくに さわやまじょう=現在の滋賀県彦根市(しがけん ひこねし)にあった城)へ入りました。
1602年(慶長七年)正月、直政は、従四位下(じゅしいのげ=位階(いかい=地位)の一つ。従四位上(じゅしいのじょう)の下、正五位上(せいごいのじょう)の上。)に叙されました(じょされました=順序に従って位階をさずらること)。2月1日、直政は、佐和山にて病死(びょうし)しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)42歳でした。
1603年(慶長八年)2月、家康は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=政権(せいけん=政策(せいさく=政治上の方針や手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国家を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み、組織、機関のこと)を動かす権力)の長たる者)となり、江戸(えど)に幕府(征夷大将軍を長とした武家(武士の家筋(いえすじ=家系))政権)を開きました。
以上諸説あり。