上杉謙信(6/11)(1568年)

ここでは、信長が京都に入り、足利義昭が15代将軍になる年(1568年)を勉強します。

1568年(永禄(えいろく)十一年)3月、瀬波(せなみ=新潟県村上市にある温泉)(岩船(いわふね=現在の新潟県北部、日本海岸にある村上市の集落))郡(ぐん)村上城(むらかみ じょう=現在の新潟県村上市にあった城)の本庄繁長(ほんじょう しげなが)が兵を起こしました。本庄方(ほんじょうのかた)には甲斐(かい=現在の山梨県)の武田氏(たけだし)、隣国(りんごく=となりの国)の葦名(あしな)・大宝寺氏(だいほうじし)が味方しました。越中(えっちゅう=現在の富山県)へ出兵していた輝虎(てるとら=のちの謙信)は、同月に、放生津(ほうじょうず=現在の富山県射水市放生津町)の陣を引き払い帰国しました。4月、飯山城(いいやま じょう=長野県飯山市飯山にあった城)に在城衆を加え、新たに安田能元(やすだ よしもと)を派遣(はけん)しました。
5月、柿崎景家(かきざき かげいえ)と直江政綱(なおえ まさつな)を村上城(むらかみ じょう=現在の新潟県村上市にあった城)に差し向け、阿賀北(あがきた)の黒川家中(くろかわ かちゅう=黒川の武家、およびその家臣団)・鮎川家中(あゆかわ かちゅう=鮎川の武家、およびその家臣団)に対し、味方として働くよう書状を送りました。6月、武田信玄(たけだ しんげん)、兵を信濃長沼(しなの ながぬま=現在の長野県長野市)に入れ、信濃飯山城(しなの いいやま じょう=現在の長野県飯山市飯山にあった城)を狙いました。8月信濃(しなの=現在の長野県)からの侵入ルートにあたる関山(せきやま=関所のある山)を守る関山権現別当宝蔵院(せきやま ごんげん べっとう ほうぞういん)と宇佐美氏(うさみ し)・平子氏(たいらこ し)・須田氏(すだ し)に加えて、上杉一族(うえすぎ いちぞく)の十郎景信(じゅうろう しげのぶ)・黒滝衆(くろたき しゅう)(弥彦村(やひこむら=現在の新潟県西蒲原郡にある村))を移し、上杉一族の山本寺定長(さんぽんじ さだなが)を留めて相談して守るように命じ、さらに竹俣氏(たけまた し)・山岸氏(やまぎし し)・下田衆(しもだ しゅう)を加え、飯田城(いいだ じょう=現在の長野県飯田市にあった城)に新発田(しばた)・五十公野(いじみの)・吉江軍(よしえ ぐん)を移しました。越中(えっちゅう=現在の富山県)と信濃(しなの=現在の長野県)両方の侵入ルートにあたる禰知城(ねちじょう=現在の新潟県糸魚川市根知谷区にあった城)・不動山城(ふどうやま じょう=現在の新潟県糸魚川市大字越にあった城)に謙信の旗本の軍隊を配置し、春日山城(かすがやま じょう=現在の新潟県上越市にあった城)を近臣(きんしん=君主の直近にいる家臣)山吉豊守(やまよし とよもり)・河田長親(かわだ ながちか)と栃尾衆(とちお しゅう)で固めました。10月、府中(ふちゅう)を発ち(たち)、柏崎(かしわさき)、出雲崎(いずもさき)、新潟(にいがた)を経て(へて)村上(むらかみ)に至り(いたり)、11月、村上城(むらかみ じょう=現在の新潟県村上市にあった城)を囲みました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA