ここでは、和田城を攻める年(1565年)から、正月を佐野の陣で迎え(むかえ)、月末に帰国するところ(1567年)までを勉強します。
1565年(永禄(えいろく)八年)5月、河内(かわち=現在の大阪府東部)守護(しゅご=職制の一。地方(ちがた)の下、守護代の上)畠山氏(はたけやまし)から上洛(じょうらく=京都に入ること)の要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)をうけるが、上洛しなかった。8月、和田城(わだ じょう=現在の群馬県高崎市高松町にある城)を攻めました。11月末、関東へ出兵しました。
1566年(永禄九年)1月、佐野に向けて兵を動かし、再び小田城(おだ じょう=現在の茨城つくば市にあった城)を攻めました。3月、原胤貞(はら たねさだ)の下総臼井城(しもうさ うすい じょう)北条軍(ほうじょうぐん)の援軍(えんぐん)があり、敗北しました。4月、越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)に帰国しました。8月、関東に出陣(しゅつじん)し、閏8月中頃、由良氏(ゆらうじ)の金山城(かねやま じょう=現在の群馬県太田市にあった城)を攻めました。10月1日、三度目の関東に出兵しました。10月24日、沼田に着陣しました。10月25日、上野(こうずけ=現在の群馬県)に出陣し、厩橋(うやまばし=現在の群馬県前橋市)・新田(にった=現在の群馬県太田市)・足利(あしかが=現在の栃木県足利市)など敵城二十余カ所を通り、10月27日、佐野城(さの じょう=(現在の栃木県前橋市若松町)を攻め落としました。11月8日、大胡(おおご=現在の群馬県前橋市)に着陣し、11月9日、北条軍(ほうじょう ぐん)と戦い、高山(たかやま=現在の群馬県藤岡市)から深谷付近(ふかやま ふきん=現在の埼玉県深谷市)を放火し、本陣に帰えりました。11月19日、佐野へ移動し、11月21日、帰国しました。12月、厩橋城(うやまばし じょう=現在の群馬県前橋市にあった城)の北条高広(ほうじょう たかひろ)、輝虎から離反(りはん=そむきはなれること)し北条方(ほうじょうのかた)につきました。
1567年(永禄十年)正月を佐野の陣で迎え(むかえ)、月末に帰国しました。3月上旬、白井城(しろい じょう=現在の群馬県渋川市白井にある城)、武田方(たけだのかた)の真田幸隆(さなだ ゆきたか)によって落ちました。
以上所説あり。