織田信長(9/9)(1580年~1582年)

ここでは、播磨三木城主別所長治(べっしょ ながはる)の(1580年)から本能寺の変(信長の自刃)(1582年)までを勉強します。

1580年(天正八年)1月、播磨(はりま=現在の兵庫県南西部)三木城(みき じょう=兵庫県三木市上の丸町にあった城)主別所長治(べっしょ ながはる)が自刃(じじん=刃物を使って自らの生命を絶つこと)しました。
閏3月、石山本願寺(いしやま ほんがんじ=現在の大阪城本丸の場所にあったお寺)と和睦(争いをやめて仲直りすること)をしました。
5月、秀吉(ひでよし)、播磨(はりま=現在の兵庫県南西部)の反乱を鎮(しず)めて秩序(ちつじょ)を回復しました。
7月、摂津(せっつ=現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の反乱を鎮(しず)めて秩序(ちづじょ)を回復しました。
8月、佐久間信盛(さくま のぶもり)父子を追放しました。林秀貞(はやし ひでさだ)・安藤守就(あんどう もりなり)父子・丹羽氏勝(にわ うじかつ)を追放しました。
播磨(はりま=現在の兵庫県南西部)を検地(土地の測量調査)しました。加賀(かが=現在の石川県南部)を過半、反乱を鎮(しず)めて秩序(ちつじょ)を回復しました。
9月、越中(えっちゅう=現在の富山県)の反乱を鎮(しず)めて秩序(ちつじょ)を回復のため戦いました。大和(やまと=現在の奈良県)を検地(土地の測量調査)しました。

1581年(天正九年)2月、京都馬揃え(きょうと うまぞえ=京都で行われた大規模な観兵式・軍事パレード)を行いました。信長はイエズス会巡察師(かい じゅんさつし)に「予が国王で内裏(だいり=天皇)である」と表明しました。
6月、新発田重家(しばた しげいえ)を調略(ちょうりゃく=もくろみ)により味方に付けました。
9月、伊賀惣国一揆(いがそうこくいっき=伊賀衆らを中心とした国の人たちの暴動)を殲滅(せんめつ=すっかい滅ぼすこと)しました。
秀吉が因幡(いんば=現在の鳥取県東部)の反乱を鎮(しず)めて秩序(ちつじょ)を回復しました。丹後(たんご=京都府北部)を検地(土地の測量調査)しました。

1582年(天正十年)2月、木曽義昌(きそ よしまさ)が寝返り、信長は諸将に出陣を命じました。
3月、武田氏(たけだ し)が滅亡(めつぼう=ほろびること)しました。
6月2日、本能寺(ほんのうじ=京都府京都市中京区下本能寺前町にあるお寺)にて明智光秀(あけち みつひで)の謀反(むほん=時の為政者(いせいしゃ=政治を行う者)に反逆すること)により
攻められ、天下統一まじかで自刃(じじん=刃物を使って自らの生命を絶つこと)することになりました。(本能寺の変)

以上諸説あり。