織田信長(8/9)(1577年~1579年)

ここでは、信長が双龍の天下布武印の使用を開始して(1577年)から荒木村重の妻子らを処刑する(1597年)までを勉強します。

1577年(天正五年)2月、紀伊雑賀(きい さいか=現在の和歌山県和歌山市)を攻め、越前(現在の福井県北東部)一国検地(土地の測量調査)しました。
5月、双龍(そうりゅう)の天下布武印(てんかふぶいん)使用を開始しました。6月、安土山下町中に十三カ条の掟(楽市令)を発給。8月、大和松永久秀謀反、柴田勝家に命じて加賀出兵。
9月、上杉謙信(うえすぎ けんしん)に加賀手取川(かが てどり かわ=石川県白山市)で大敗しました。
10月、松永久秀(まつなが ひさひで)の謀反を鎮圧(反逆を武力をもってしずめる)、信忠(のぶただ)が三位(位階の一。従三位の上、従二位の下)中将(官職の一)に昇進しました。
秀吉を播磨平定(はりま へいてい=鎮圧)に出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)させました。従二位(位階の一。正三位の上、正二位の下)右大臣(官職の一)に任官されました。

1578年(天正六年)2月、播磨三木城(はりま みき じょう=現在の兵庫県三木市上の丸町にある城)主別所長治(べっしょ ながはる)が離反(りはん=従っていた者が、そむき離れる)しました。3月、上杉謙信が病死しました。
4月、右大臣・右近衛大将を辞任しましたが、天下統一後に再任の意思を表明し、越中(えっちゅう=現在の富山県)へ工作を開始しました。
7月、尻子勝久(あまご かつひさ)の守る播磨上月城(現在の兵庫県佐用郡佐用町にある城)が毛利氏に攻められて落城しました。10月、摂津有岡城(せっつ ありおか じょう)主荒木村重(あらき むらしげ)が謀反(反逆)しました。
木津川口(きづかわぐち=現在の大阪市大正区)で毛利水軍(もうり すいぐん=瀬戸内海(せとないかい)で活躍(かつやく)した毛利氏直轄(ちょっかつ=直接支配)の水軍)を破ぶりました。

1579年(天正七年)5月、安土城(あづち じょう=現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にあった城)天主に移住し、安土宗論(あづちしゅうろん=信長の命令により安土浄厳院(あづち じょうごんいん)で行われた浄土宗と日蓮宗の間の法論)をおこしました。
9月、徳川信康(のぶやす)が切腹しました。
10月、明智光秀(あけち みつひで)、丹波(たんば=現在の京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の反乱を鎮(しず)めて秩序(ちつじょ)を回復しました。
12月、荒木村重(あらき むらしげ)の妻子らを処刑しました。

以上諸説あり。