細川ガラシャ(1/24)(1563)

 細川ガラシャの本名は「明智珠(あけち たま)」「明智玉(あけち たま)」「明智玉子(あけち たまこ)」と所説あります。父は織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわしへいわちょうしろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)の臣下(しんか=けらい)であった明智光秀(あけち みつひで、~1582=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=だいみょう=ある地域を支配している者)。織田信長を自刃させた(じじん=刀物で自分の生命を絶たせた)ひと(本能寺の変(ほんのうじのへん)=天正10年6月2日早朝、本能寺(ほんおうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺院)に滞在(たいざい=よそに行って、ある期間そこにとどまること)していた織田信長を家臣(かしん=けらい)・明智光秀が謀反(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こすこと)を起こして襲撃(しゅうげき=突然おそいかかること)した事件))と結婚し、のちにキリスト教の信者(しんじゃ=神や仏(ほとけ)などを信じる者)となりました。そんな細川ガラシャの名が残ったのは、父・明智光秀が織田信長に対して謀叛(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こすこと)を起こしたことによって、運命(うんめい=将来)が暗転(あんてん=事態が急に悪いほうへ変わること)し、悲劇の女性になってしまい、関ケ原の戦いの直前で自害(じがい=自殺)することになったからでした。

ここでは、細川ガラシャが生まれた1563年から1571年までに、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1563年(永禄(えいろく)六年)明智光秀の三女として、越前国(えちぜんのくに=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))で生まれました。母は側室(妻以外にも囲う女性)であった妻木勘解由左衛門範煕(つまき かでゆ ざえもん のりひろ)の娘で、幼名は「珠」「珠子」「玉」「玉子」など所説あります。尚、父・光秀は、越前(えちぜん=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))朝倉氏(あさくらし)に仕えていました。

以上所説あり。