
黒田官兵衛(くろだ かんべえ)は、播磨(はりま=現在の兵庫県南西部)の小寺家(こでらけ)の家臣であったが、天下を取る勢いがあった織田信長(おだ のぶなが)を仕えることを決心しました。信長は官兵衛の能力にすぐ気づき、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の軍師(ぐんし=たくらみに、はかりごとを、めぐらす人)にさせました。1578年、有岡城(ありおか じょう=現在の兵庫県伊丹市伊丹にあった城)の荒木村重(あらき むらしげ)が信長に反乱(はんらん=支配者や政府にそむき、乱をおこすこと)を起こしたとき、官兵衛は説得にむかったが失敗し、ろうやに閉じ込められてしまいました。「官兵衛がもどらないのはおかしい、裏切った」。信長は怒ったというが、官兵衛は一年後、ぼろぼろの姿でたすけ出されました。それ以来、官兵衛はまわりから信用されるようになったという。1582年、本能寺で信長が倒されると、官兵衛は中国地方で毛利氏(もうりし)をせめていた秀吉にすぐ京都へもどるようにすすめ、天下統一への道をつくった。その後も数かずの戦いの作戦を立てて秀吉を勝利に導き、秀吉が死ぬまで「軍師」として側に仕えました。
そんな黒田官兵衛、ここでは、生誕(1546年)から織田信長への従属すること(1575年)までを勉強します。
1546年(天文(てんぶん)十五年)十一月二十九日、小寺職隆(こでら まさもと)の嫡男(ちゃくなん=正室の生んだ男子のうち最も年長の子)として播磨国姫路(=はりまのくにひめじ=現在の兵庫県南西部)に生れました。
1552年(天文二十一年)この頃、寺に入り、修行をしました。
1559年(永禄(えいろく)二年)この年、母明石氏(はは あかし し)が亡くなりました。
1562年(永禄五年)この頃、初陣(ういじん=初めて戦いに出ること)を果たしました。
1567年(永禄十年)十二月、称名寺(しょうめいじ=現在の神奈川県横浜市金沢区金沢町にある寺院)に対して土地の「売券(ばいけん=売り手より買い手に渡す売買成立の証文)」を出しました。この頃、櫛橋伊定(くしはし これさだ)の娘を妻に迎えました。
1568年(永禄十一年)十二月三日、嫡男(ちゃくなん=正室の生んだ男子のうち最も年長の子)の松寿丸(しょうじゅまる=のちの黒田長政(くろだ ながまさ))が生まれました。
1569年(永禄十二年)八月、青山(あおやま)の戦い・土器山(かわらけやま= 現在の佐賀県神埼市にある)の戦いで赤松政秀軍(あかまつ まさひで ぐん)を撃退しました。
1575年(天正(てんしょう)三年)この頃、織田信長への従属(じゅうぞく=他のものの下に、つき従うこと)を主君(しゅくん=自分の仕えている君主)小寺政職(こでら まさもと)らに説きました。
以上所説あり。