織田信長(2/9)(1548年~1553年)

ここでは、信秀が小豆城で今川義元に敗北して(1548年)から、信長と斎藤道三と尾張聖徳時で会見するところ(1553年)までを勉強したいと思います。

1548年(天文(てんぶん)十七年)3月、信秀(のぶひで)は、小豆坂(あずきざか=現在の愛知県岡崎市字羽根町字小豆坂、同市美合町字小豆坂)で今川義元(いまがわ よしもと)に敗北します。
その後、美濃(みの=現在の岐阜県南部)斎藤道三(さいとう どうさん)と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)し、道三(どうさん)の娘(濃姫(のうひめ))と結婚しました。

1549年(天文十八年)11月、熱田八ヵ村(あつた はちかそん=現在の愛知県名古屋市熱田区にあった市場、田中、神戸、今道・宿、大瀬子、中瀬、東脇、須賀の八カ所)に五カ条の制礼(せいさつ=禁制の条項を書いた立て札)を出しました。
このとき、信長は藤原信長(ふじわら のぶなが)と署名していました。
同月、松平広忠(まつだいら ひろただ)が家臣に命を奪(うば)われてしまいます。また、信秀が安祥城(あんじょう じょう=現在の愛知県安城市安城町にあった城)を失い、人質交換で松平竹千代(まつだいら たけちよ=のちの徳川家康)を今川(いまがわ)へ送りました。

1550年(天文十九年)12月、信秀が病床にあって、信長への事実上の代替わりが行われました。

1552年(天文二十一年)3月に、信秀が病死し、信長は19歳で家督(かとく=あとつぎ)を相続しました。
4月、尾張鳴海城(おわり なるみ じょう=現在の愛知県名古屋市緑区にあった城)主・山口教継(やまぐち のりつぐ)が今川へ寝返り、沓掛城(くつかけ じょう=現在の愛知県豊明市沓掛町にあった城)・
大高城(おおだか じょう=現在の愛知県名古屋市緑区大高町にあった城)を乗っ取られてしまいます。
8月、清須(きよす=現在の愛知県北西部)守護代家(しゅごだいけ=地方の役職、守護の下)家老(かろう)・板井大膳(いたい だいぜん)が挙兵(きょへい=兵を集めて戦いを起こすこと)し、信長に敵対するが、信長が勝利して
清須城(きよす じょう=現在の愛知県清須市一場にあった城)を攻めました。

1553年(天文二十二年)4月、斎藤道三(さいとう どうさん)と尾張聖徳寺(おわり しょうとくじ=現在の愛知県名古屋市天白区にあるお寺)で会見しました。
7月、守護(しゅご=地方の役職、守護代の上)・斯波義統(しば よしむね)が板井大膳(さかい だいぜん)らに殺害されます。信長は斯波義統(しば よしむね)の子義銀(よしかね)をかばって守りました。

以上所説あり。