
織田信長(おだ のぶなが)について、まず勉強しましょう。信長は、尾張(おわり=現在の愛知県西部)の小さな戦国大名戦国時代(大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名(だいみょう=ある地域を支配している者)の家に生まれました。そしてこの信長がわずか数十年の間に、群雄割拠する戦国大名の中から飛び出し、一気に天下統一へと向かっていきます。信長の印判には「天下布武(てんかふぶ)」の文字、天下統一の野望がうかがえます。
ここでは信長が生まれて(1534年)から初陣(ういじん=はじめての戦場にでること)(1545年)までを勉強したいと思います。
1534年(天文(てんぶん)三年)5月に尾張(おわり=現在の愛知県西部)守護代( しゅごだい=地方の役職、守護の下)・織田氏(おだし)家老、信秀(のぶひで)の嫡男(ちゃくなん)に生まれ、幼名は吉法師(きっぽうし)と名づけられました。
1535年(天文四年)、松平清康(まつだいら きよやす=徳川家康(とくがわ いえやす)の祖父(そふ=父母の父))が、信秀(のぶひで)を攻めるが、尾張守山(おわり もりやま=現在の愛知県名古屋市守山区市場)で家臣に殺されてしまいます(守山崩れ)。
1538年(天文七年)、信秀は今川氏豊(いまがわ うじとよ)を追い、那古屋城(なごや じょう=現在の愛知県名古屋市中区にあった城)を奪(うば)いました。
1540年(天文九年)6月、信秀は西三河(にしみかわ=現在の愛知県の中部)を攻侵(こうしん=攻め込み)し、安祥城(あんじょう じょう=現在の愛知県安城市安城町にあった城)を攻略します。
1542年(天文十一年)、信秀は、斎藤道三(さいとう どうさん)に追われた美濃(みの=現在の岐阜県南部))守護(しゅご=地方の役職、守護代の上)土岐頼芸(とき よりなり)を匿(かくま)います。
1544年(天文十三年)、信秀は、道三の美濃(みの=現在の岐阜県南部)稲葉山城(いなばやま じょう=現在の岐阜県岐阜市の金華山にあった城)を攻めるが敗北してしまいます。信長はこの頃、
那古屋城(なごや じょう=現在の愛知県名古屋市中区にあった城)を譲られます。
1545年(天文十四年)、信秀は、松平広忠(まつだいら ひろただ、徳川家康の父)に安祥城(あんじょう じょう=現在の愛知県安城市安城町にあった城)を攻められたが勝利します。
1546年(天文十五年)1月、信長は、古渡城(ふるわたり じょう=現在の愛知県名古屋市中区にあった城)で元服(成人)し、三郎信長(さぶろう のぶなが)と名乗ります。翌年、14歳で三河(みかわ=現在の愛知県東半部)吉良(きら=愛知県南部、西尾市南部)大浜(おおはま=現在の愛知県碧南(へきなん)市浜寺(はまでら)町付近)へ初陣(ういじん=初めて戦場にでること)を飾りました。
この年、人質として松平竹千代(まつだいら たけちよ=のちの徳川家康)を迎え入れます。
以上所説あり。