真田幸村(2/6)(1582年~1586年)

ここでは、1582年~1586年までに、真田幸村(さなだ ゆきむら)が、たずさわったことを勉強します。

1582年(天正(てんしょう)十年)3月、昌幸(まさゆき)が臣従(しんじゅう=家来が主君につき従うこと)していた武田勝頼(たけだ かつより)が、織田信長(おだ のぶなが)と徳川家康(とくがわ いえやす)の連合軍(れんごうぐん=二国以上の軍隊で編制した軍隊)に攻(せ)め立てられ、自害(じがい=自分で自分のからだを傷つけて死ぬこと)しました。享年三十七でした。4月、昌幸、織田信長に臣従しました。6月2日、信長が本能寺(ほんのうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺院)で明智光秀(あけち みつひで)によって討(う)たれました(本能寺の変)。同月13日、羽柴(はしば=のちの豊臣(とよとみ))秀吉(ひでよし)、光秀(みつひで)を破(やぶり)りました(山崎の合戦(やまざきのかっせん))。7月、昌幸、北条氏直(ほうじょう うじなお)に臣従しました。9月、氏直と交戦状態(こうせんじょうたい=事実上戦争を行なっている状態)の徳川家康に懐柔(かいじゅう=上手に話をもちかけて、自分の思う通りに従わせること)され、昌幸は氏直を裏切(うらぎ)り、家康に臣従しました。10月、氏直と家康が和睦(わぼく= 争いをやめて仲直りすること)しました。

1584年(天正十二年)上田城(うえだ じょう=現在の長野県上田市二の丸(ながのけん うえだし にのまる)にあった城)が築城(ちくじょう=城を築くこと)されました。

1585年(天正十三年)4月、昌幸、家康から真田家の所領(しょりょう=領有している土地)となっていた沼田(ぬまた=現在の群馬県沼田市)を北条方(ほうじょうがた)へ譲渡(じょうと=ゆずりわたすこと)するように命じられました。6月頃、昌幸、家康を裏切り、越後(えちご=現在の佐渡ヶ島(さどがしま)を除く新潟県(にいがたけん))上杉景勝(うえすぎ かげかつ)に臣従しました。7月頃、幸村、景勝のもとへ人質(ひとじち=交渉(特定の問題について相手と話し合うこと)を有利(利益のあること)にするために、特定の人の身柄(人間のからだそのもの)を拘束(行動の自由をしばること)すること)として送られました。閏(うるう)8月2日、昌幸、上田城を攻める徳川軍と戦い、これを撃退(げきたい=攻めてきた敵などを、逆に攻撃して追い払うこと)しました。

1586年(天正十四年)、幸村、元服(げんぷく=男子が成人し、髪形(かみがた)、服装(ふくそう)を改め(あらため)、初めて冠(かんむり)をつける儀式(一定の作法・形式にのっとって行われる行事))して源次郎信繁(げんじろう のぶしげ)と名乗りました。幸村、上杉景勝のもとから、大坂(おおさか)の秀吉のもとへ人質として送られました。のちに、豊臣家の家臣(かしん=けらい)・大谷吉継(おおたに よしつぐ)の娘を娶りました(妻としてむかえました)。

以上諸説あり。