毛利元就(1/6)(1497年)

毛利元就(もうり もとなり)は、安芸(あき=現在の広島県(ひろしまけん))の小さな領地(りょうち=所有し支配している土地)をもつ有力武士(ゆうりょく ぶし)の次男として生まれました。父と兄が相次(あいつ)いで亡(な)くなり、兄の子も死んだため、1523年、元就は27歳で毛利家を継(つ)ぎました。ところが、周防(すおう=現在の山口県(やまぐちけん))の大内氏(おおうちし)や出雲(いずも=現在の島根県(しまねけん))の尼子氏(あまごし)ら、まわりを有力大名(ゆうりょく だいみょう)に囲まれていました。元就は生き残りをかけ、知恵(ちえ=事に当たって適切に判断し、処置する能力)をしぼらねばなりませんでした。元就は「力をつけるまでのしんぼうだ」と、いったん大内氏に従(したが)いました。そして3人の息子(むすこ=)に期待(きたい=当てにして心待ちにすること)をかけました。元就は子どもたちに「1本の矢は、たやすく折(お)れてしまうが、3本まとめると折れない。だから兄弟3人、協力(きょうりょく=ある目的に向かって力を合わせること)せよ」と教えたという伝説(でんせつ=言い伝え)があります。このように、元就は子どもたちが協力して毛利家を盛(も)り立てるように説いた(といた=相手に分かるように話して聞かせる)といいます。そして元就は、次男・元春(もとはる)を、安芸と石見(いわみ=現在の島根県)に勢力(せいりょく=他をおさえ、支配下におくいきおいと力)をもつ吉川家(きっかわけ)に養子(ようし=他人の子を自分の子とすること)に出し、三男・隆景(たかかげ)を強力(きょうりょく=力や作用の強いこと)な水軍(すいぐん=船に乗って戦闘する兵力をいう)をもつ小早川家(こばやかわけ)に養子に出しました。こうしてふたりにそれぞれの家を継がせて、毛利家が強くなるように協力させました。そんな中、1551年に大内氏の当主(とうしゅ=その家の現在の主人)・大内義隆(おおうち よしたか)が家臣(かしん=けらい)の陶晴賢(すえ はるかた)に殺される事件(じけん)が起きました。

ここでは、毛利元就(もうり もとなり)が生まれた1497年を勉強します。

1497年(明応(めいおう)六年)毛利元就、安芸国(あきのくに=現在の広島県西部)吉田郡山城(よしだ こうりやま じょう=現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(ひろしまけん あきたかたし よしだちょうよしだ)にあった城)主・弘元(ひろもと)の次男として生まれました。幼名(ようみょう=おさない時の名)は松寿丸(しょうじゅまる)でした。

以上所説あり。