
宮本武蔵(みやもと むさし)は、両手に一本ずつ刀を持って戦う「二刀流(にとうりゅう)」をはじめました。巌流島(がんりゅうじま=現在の山口県下関市(やまぐちけん しものせきし)にある島、正式名称は船島。住所は大字彦島字船島(おおあざひこじま あざふなしま))で、佐々木小次郎(ささき こじろう)と決闘(けっとう=勝敗を決める戦い)し、勝利したのをはじめ、60戦以上して、無配でした。
ここでは、宮本武蔵誕生(1580年)から、作州讃甘村(さくしゅう さぬもむら=現在の岡山県北東部に存在していた村)の新免無二之助一真(しんめん むに のすけ かずま)の養子(ようし=血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させること)になる(1588年)までを勉強します。
1580年(天正(てんしょう)十年)、生誕(せいたん=誕生)には所説あり、当年生誕と天正十二年生誕との説があります。当年生誕の説では、播州印南郡米堕村(ばんしゅう いんなみぐん よねだむら=現在の兵庫県高砂市米田町(ひょうごけん たかさごし よねだまち))で、田原家貞(たはら いえさだ)の子として生まれた説があります(宮本家系譜)。
1584年(天正十二年)が生誕の説には、二通りあります。ひとつは美作国吉野軍讃甘村宮本(みまさかのくに しのぐん さもむら やもと=現在の岡山県美作市大原(おかやまけん まさかし おばら))平田無二(ひらた むに)と新免宗貞(しんめん むねさだ)の女(むすめ)・於政(おまさ)との子として生まれた説(平田家系譜)と、平田無二と別所林治(べっしょ しげはる)の女・率子(よしこ)との子として生まれた説(田住家系譜)があります。3月、於政が亡くなりました。
1587年(天正十五年)この頃、母・率子播州(ばんしゅう=現在の兵庫県南西部)の生家に帰り、のち田住政久(たすみ まさひさ)に再嫁(さいか=再婚、年月不詳)(田住家系譜)
1588年(天正十六年)この頃、宮本武蔵は、作州讃甘村(さくしゅう さぬもむら=現在の岡山県北東部に存在していた村)の新免無二之助一真(しんめん むに のすけ かずま)の養子(ようし=血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させること)となりました(宮本家系譜)。
以上諸説あり。