加藤清正(1/8)(1562年~1569年)

 加藤清正(かとう きよまさ)は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の親類だったため、小さいころから秀吉に仕えました。身長は2メートル近くあったといいます。賤ケ岳の戦い(しずがたけの たたかい=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)の賤ケ岳付近で起きた豊臣秀吉と柴田勝家(しばた かついえ)の戦い)では「賤ケ岳の七本槍(しちほんやり)」に数えられるなど、勇ましい戦いぶりで有名でした。朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)にも参加し、朝鮮半島(ちょうせん はんとう)の奥地(おくち=海岸や都会から遠く離れた地域)まで攻めこむ(せめこむ=戦いをしかける)など活躍(かつやく=大いに活動すること)をしました。しかし、朝鮮出兵を終わらせようとする小西行長(こにしゆきなが)や石田三成(いしだ みつなり)らと対立しました。秀吉が亡くなると、清正と行長、三成との仲はさらに悪くなりました。清正は徳川家康(とくがわ いえやす)の味方になり、関ヶ原の戦い(せきがはらの たたかい)では、徳川軍(東軍)に参加して勝利しました。家康から肥後(ひご=現在の熊本県(くまもとけん))をあたえられた清正は、熊本城(くまもと じょう=現在の熊本県熊本市中央区にある城)を建て、河川工事などの公共事業をおこない、領民からしたわれました。豊臣家に恩を感じていた清正は、徳川家と豊臣家の仲直りを願ってましたが、それを果たせないまま病死しました。

ここでは、加藤清正生誕(1562年)から姉川の合戦(1570年)までを勉強します。

1562年(永禄(えいろく)五年)六月、尾張愛知郡中村(おわり あいちぐん なかむら=現在の愛知県名古屋市中村区(あいちけん なごやし なかむらく))の刀匠(とうしょう=刀をつくる人)・清忠(きよただ)の嫡男(ちゃくなん=あととり)として生まれました。幼名(ようめい=おさない時の名)は夜叉若(やしゃわか)で、のちの虎之助(とらのすけ)でした。

1569年(永禄十二年)妙延寺(みょうえんじ=)住僧(じゅうそう=その寺に住んでいる僧)・日順和尚(にちじゅん おしょう)に句読(くとう=文章の読み方)を授かりました。また、竹馬の友(ちくばの とも=幼なじみ)・森本儀太夫(もりもと ぎだゆう)、飯田覚兵衛(いいだ かんべえ)と竹刀(しない=剣道で用いる竹製の刀)で勝負を決し、主従(しゅじゅう=主君と家来)の約束をしました。

以上諸説あり。