斎藤道三(2/10)(1495年~1496年)

ここでは、1495年~1496年を勉強します。

1495年(明応(めいおう)四年) 美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)で守護(しゅご=室町時代(むろまち じだい※1)の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・土岐成頼(とき しげより※2)の後継者争いになっていました。「成頼様が四男・土岐元頼(もとより※3)様を推している」という美濃守護代(しゅごだい=守護の下に置かれた役職)・斎藤家(さいとう け)当主(とうしゅ=その家の現在の主人)・斎藤利藤(としふじ※4)に対し、「長男の土岐政房(まさふさ※5)様を後継ぎとするのが筋」という利藤の異母弟(いぼてい=父が同じで母が異なる弟)・斎藤利国が対立し、3月に開戦し(かいせんし=戦争を始め)ました(船田合戦(ふなだかっせん))。

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※1 むろまち じだい=足利(あしかが)将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん※1-1))家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代。
※1-1 せいいたいしょうぐん=武士(ぶし=さむらい)による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。

※2 とき しげより、1442~1497=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、守護大名(しゅご だいみょう=守護)。美濃守護。土岐氏第11代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)

※3 とき もとより、~1496=武将。美濃守護・土岐成頼の四男

※4 さいとう としふじ、~1498=武将。美濃斎藤氏3代目守護代。斎藤利永(としなが※4-1)の嫡男(ちゃくなん=あととり)。斎藤利国(さいとう としくに※4-2)の異母兄(いぼけい=父が同じで母が異なる兄)

※4-1 さいとう としなが、~1460=武将。美濃斎藤氏2代目守護代。父は斎藤宗円(さいとう そうえん、1389~1450=武将。美濃斎藤氏初代守護代。父は斎藤祐具(さいとう ゆうぐ、?~?=武将))

※4-2 さいとう としくに、~1497=のちの斎藤妙純(みょうじゅん)。武将。斎藤利永の子。利藤の異母弟(いぼてい=父が同じで母が異なる弟)。斎藤妙椿(みょうちん※4-2-1)の養子.(ようし=血縁(げつえん=血のつながり)関係なく親子関係になること)。美濃斎藤氏持是院家2代目当主。利親(としちか※4-2-2)、又四郎(またしろう※4-2-3)、彦四郎(ひこしろう※4-2-4)の父

※4-2-1 さいとう みょうちん、1411~1480=武将・僧(そう=お坊さん)。美濃斎藤氏持是院家(じぜいん け※4-2-1-1)初代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。

※4-2-1-1 じぜいん け=美濃斎藤氏守護代家に対して、斎藤妙椿の家系(善恵寺(ぜんね じ=現在の岐阜県加茂郡八百津町(ぎふけん かもぐん やおつちょう)にある寺院)に持是院という子院(しいん※4-2-1-1-1)を構えたため)。

※4-2-1-1-1 しいん=本寺(ほんじ=この寺)の境内(けいだい=寺院の敷地内(しきちない))にあり、本寺に付属する小寺院(こじいん=小さい寺)

※4-2-2 さいとう としちか、1473~1497=武将。美濃斎藤氏持是院家3代目当主

※4-2-3 さいとう またしろう、1482~1499=武将。斎藤妙純の次男。美濃斎藤氏持是院家4代目当主

※4-2-4 さいとう ひこしろう、?~?=武将。斎藤妙純の3男。美濃斎藤氏持是院家5代目当主

※5 とき まさふさ、1457~1519=武将。土岐成頼の長男。美濃守護
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美濃小守護代(こしゅごだい※6)・石丸利光(いしまる としみつ※7)が元頼方に付き、利国の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)・長井秀弘(ながい ひでひろ※8)がいる美濃・加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納丸之内(ぎふけん ぎふし かのうまるのうち)にあった城)に石丸軍(元頼方)が攻め向ってきました。この事態に、秀弘の計らい(はかい=よい結果になるように、あれこれと心をくばること)で美濃で商い(あきない=商売)を行っていた道三の父・松波庄五郎(まつなみ しょうごろう)は、秀弘に対して、この戦いで手柄(てがら=人からほめられるような立派な働き)を立てたなら長井家の家臣(かしん=けらい)にして頂くことを約束してもらい駿馬(しゅんめ=足の速い馬)を借り、即、城を出立しました。加納城は石丸軍に囲まれてしまい、秀弘は不利な状況になりました。しかし、庄五郎が美濃中から金銭(きんせん=おかね)を集め、石丸軍の足軽(あしがる=身分の低い兵士(へいし=兵隊(へいたい)))にばら蒔き(ばらまき=金銭を方々に気前よく与え)、味方にして参陣(さんじん=陣営(じんえい=戦場で軍勢が集結して待機している所)に到着)したことにより、石丸軍の包囲は崩れ、石丸軍は敗れました。庄五郎はこの功績(こうせき=てがら)により西村勘九郎(にしむら かんくろう)と改名し、正式に長井家の家臣になりました。尚、この戦いで、守護土岐氏の居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)・革手城(かわて じょう=現在の岐阜県岐阜市正法寺町(ぎふけん ぎふし しょうほうじちょう)にあった城)は焼失し(しょうしつし=焼けてなくなり)、土岐氏は福光館(ふくみつやかた=現在の岐阜県岐阜市長良福光(ぎふけん ぎふし ながらふくみつ)にあった館)に移りました。9月、土岐政房が美濃国守護になりました。

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※6 こしゅごだい=守護代(しゅごだい=守護(しゅご=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)の下に置かれた役職)の家人(けにん=けらい)でその職務を助ける役職

※7 いしまる としみつ、~1496=武将。美濃小守護代

※8 ながい ながひろ=~1533=武将。美濃小守護代。父は長井秀弘(ながい ひでひろ、~1497、武将)
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1496年(明応五年) 斎藤利国改め妙純と嫡男・利親、そして秀弘らは、兄・守護代・利藤と石丸利光に加担した近江の六角高頼(ろっかく たかより※10)を討つ(うつ=斬(き)り殺す)ため出兵し(しゅっぺいし=軍隊を出動させ)ました。6月、六角氏と対陣中、守護代・斎藤利藤が隠居(いんきょ※11)したことにより、船田合戦が終結(しゅうけつ=おわり)となりました。冬、六角攻めに勘九郎も参陣しましたが戦況が芳しくない(かんばしくない=あまり良く無い状態である)ため退去し(たいきょし=今いる場所から立ち去り)ました。そして、12月、斎藤妙純父子と長井秀弘らが六角攻めを終えて美濃への帰還(きかん=戦地から故郷へ帰る)途中(とちゅう)、一揆(いっき=地侍(じざむらい=侍身分の一種)・農民・信徒(ある宗教の信者)らが団結して起こした暴動)に待ち伏せされ、皆、討たれてしまいました。これにより、斎藤家の家督と守護代は利親の遺児(いじ=親が死んで、あとに残された子供)・利良(としなが※12)が継承し(けいしょうし=うけつぎ)、長井家の家督は長弘(ながひろ※13)が継承し、勘九郎は長井家の重臣となりました。

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※10 ろっかく たかより、~1520、武将・守護大名。近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))守護、南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)の戦国大名(せんごく だいみょう※10-1)。六角氏12代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。
※10-1 せんごく だいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名

※11 いんきょ=家督(かとく=家を相続する(そうぞくする=うけつぐ)こと)をゆずり、定職(ていしょく=きまった職業)をはなれて、閑居する(かんきょする=世俗(せぞく=世の中)を離れて静かに暮らす)こと

※12 さいとう としなが、~1538=武将。斎藤利親の嫡男。美濃斎藤氏持是院家6代目当主

※13 ながい ながひろ、~1533=武将。美濃小守護代。父は長井秀弘(ながい ひでひろ、~1497、武将)
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以上所説あり。