細川ガラシャ(10/24)(1587)

ここでは、1587年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1587年(天正(てんしょう)十五年)豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)が九州平定(へいてい=世の中が平和になること)戦を行いました。秀吉自ら薩摩(さつま=現在の鹿児島県(かごしまけん)西部)まで出向き島津氏(しまづし)を屈服させ(くっぷく=負かして従わせ)、5月8日に島津義久(しまづ よしひさ、1533~1611=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。薩摩国(さつまのくに=現在の鹿児島県(かごしまけん)西部)の守護大名(しゅごだいみょう=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。島津氏第16代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))は剃髪し(ていはつし=髪をそり)、恭順の意(きょうじゅんのい=かしこまって相手に付き従う意を表明するさま)を表面した(ひょうめん=物事の、外から見えた)ので、義久を許(ゆる)し、薩摩を安堵(あんど=土地の所有権・知行権などを将軍や領主が承認)しました。しかし、その従属(じゅうぞく=他に頼って存在、または生活すること)の証(あかし=証明)として、29日に義久の娘を筆頭(ひっとう=名前を書き連ねたときの第一番目のひと)として、義弘(よしひろ=1535~1619=薩摩国(さつまのくに=現在の鹿児島県(かごしまけん)西部)の武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名))の島津義久(しまづ よしひさ、※1)の弟で、島津氏の第17代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。※1 1533~1611=武将。薩摩国の守護大名(しゅごだいみょう=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・戦国大名。島津氏第16代当主)の二人の子など島津一族と宿老(しゅくろう=武家の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい))十人ばかりも含め大規模な人質をとりました。6月18日、伊勢神宮(いせじんぐう=現在の三重県伊勢市(みえけん いせし)にある神社)領宛に、19日に薩摩に「伴天連追放令(バテレンついほうれい=豊臣秀吉が筑前箱崎(ちくぜんはこざき=現在の福岡県福岡市東区(ふくおかけん ふくおかし ひがしく))において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書)」を発布し(はっぷし=法律などを世間に広く告げ知らせ)ました。日本は「神国(かみぐに=神が統治する(とうちする=まとめおさめる)国。日本国のこと)」であり、キリシタン(きりしたん=ポルトガル語でキリスト教(きりすときよう=イエスを救世主として信じる宗教)徒。英語でクリスチャン)は「邪法(じゃほう=正道(せいどう=人としての正しい生き方)にそむく、有害(ゆうがい=悪いこと)な教え)」、領内でキリシタン、キリスト教が弘布される(ぐぶ=世間に広がる)ことを禁止し、宣教師(せんきょうし=キリスト教(きりすときょう=イエスを救世主として信じる宗教)を外国に伝え広める仕事をする人)は国外追放しました。但し、ポルトガル船の来航(らいこう=外国から船にのって来ること)は商売のためであるため許容(きょよう=そこまではよいとして認めること)しました。ポルトガル人が日本人の奴隷(どれい=物として扱われる人間で、社会的または法的にそのようなものとして正当化された身分の人間)売買(ばいばい=売り買い)していたキリシタン大名がイエスズ会(いえすずかい=カトリック教会(かとりっくきょうかい=キリスト教最大の教会)の修道会(しゅうどうかい※2)※2 ローマカトリック教会に属する修道院(しゅうどういん=修道士(しゅうどうし=清貧(せいひん=富を求めず、正しいおこないをしていて貧しいこと)・貞潔(ていけつ=貞操が固く(ていそう=男女が性的関係をもたず)、行いが潔白なこと)・服従(ふくじゅう=命令をよく聞いて、素直につき従うこと)の三つの修道誓願(しゅうどうせいがん=誓いを立て仏道を修行すること)をたてた男子)、修道女(しゅうどうじょ=清貧・貞潔・服従の三つの修道誓願(しゅうどうせいがん=誓いを立て仏道を修行すること)をたてた女子)が共同生活をする場所)の組織)に寄進(きしん=社寺等に物品や金銭を寄付すること)していた長崎を没収しました。九州は秀吉の配下に収まり、キリシタンにとっては、冬の時代の始まりとなりました。南蛮寺(なんばんじ=日本に建てられた南蛮(なんばん=シャム、ジャワなど東南アジア経由で渡来したポルトガルやスペインなど)風の教会堂)など関西地域および肥前の五十三寺を破却し(はきゃく=すっかりこわし)姿を消しました。一方、ガラシャは、忠興(ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)の家臣(かしん=けらい)に監視(かんし=見張ること)されていました。しかし、信頼する数人の侍女(じじょ=貴人(きじん=地位や家柄が高い人)に仕えて身のまわりの世話をする女)によって監視に分らぬよう、近くの教会に行き、説教を聞きに行っていました。ガラシャは洗礼(せんれい=キリスト教で、信者となる時の儀式)を受けたかったが、秀吉の側室ではないかと教会に疑(うたが)われてしまったのでを、まず、清原いと(きよはら いと)が洗礼を受け「清原マリア」という教名(きょうめい=洗礼を受けるときにつけられる名前)を受け、次々と16名の侍女が教会で説教を聞かせ、洗礼を受けさせました。そして、ガラシャの乳母(うば=母親に代わって子育てをする女性)も禅宗(ぜんしゅう=禅の修行によって人間としての真の生き方を悟ろうとする、仏教の一派)からキリシタンへと改宗(かいしゅう=自分の宗教を変えること)させ、「アガタ」という教名を受けました。そして、ガラシャはマリアに洗礼の授け方などを教え、自邸(じてい=自分のやしき)の部屋の中でマリアから洗礼を受け、「ガラシャ」の教名が授けられました。ガラシャから信頼に応え、自らの信仰(しんこう=ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること)を守って貞潔に生きるため、剃髪しました。ガラシャは細川邸(ほそかわてい)において、教会へ行き、キリスト教の教えを接して、理解を深め、自らの指針を見つけるという精神的(せいしんてき=気持ち的に)大転換をも遂(と)げていました。また、ガラシャの洗礼は「伴天連追放令」発布以前のことであったため、この事態に極力(きょくりょく=できる限り)秘(ひ)められ、細川家は、それを外部に持ち出さなかったことにより、離婚(りこん=夫婦が別れること)はしませんでした。

以上所説あり。