細川ガラシャ(14/24)(1591年)

ここでは、1591年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1591年(天正(てんしょう)十九年)2月13日、千利休(せん のりきゅう、1522~1591=堺(さかい=現在の大阪府堺市(おおさかふ さかいし))の商人、茶人。わび茶(わびちゃ=簡素簡略の境地すなわち「わび」の精神を重んじた茶の湯)の完成者。今井宗久(いまい そうきゅう、1520~1593)・津田宗及(つだ そうぎゅう、~1591)と共に茶湯の天下三宗匠(てんかさんそうしょうとよみ)と称せられた。)は豊臣秀長(とよとみ ひでなが、1540~1591=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。豊臣秀吉(※)の弟。(※1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)の死後、秀吉の勘気(かんき=怒り)を被り(かぶり)、蟄居(ちっきょ=家の中にとじこもって外出しないこと)を命じられました。そのため聚楽の不審庵を出て、忠興(ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将、大名。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)と古田織部(ふるた おりべ、1543~1615=古田重然(ふるた しげなり)。武将、大名、茶人)の二人が淀(よど=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふ きょうと しふしみく)西南部)まで見送りました。そして利休は、2月28日、自刃(じじん=刀物で自分の生命を絶つこと)に追い込まれました。秀吉は関白を秀次(ひでつぐ、1568~1595=武将・大名。豊臣氏の2代目関白)に譲り、自らは「太閤」と名乗るようになりました。この譲与(金品・権利などを他に無償で譲り与えること)は、実子・鶴松(1589~1591=豊臣秀吉の嫡男(ちゃくなん=あととり))が夭折した(ようせつ=年若くして死んだ)ことで、後継者(こうけいしゃ=あとつぎ)を甥(おい=兄弟姉妹の息子)の秀次と定めたこと、また朝鮮征伐(ちょうせんせいばつ=李氏朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)との戦争)を実行するため自ら九州に動座する(どうざする=大将が出陣する)決意を固めていたためでした。

以上所説あり。