細川ガラシャ(13/24)(1590年)

ここでは、1590年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1590年(天正(てんしょう)十八年)正月、徳川家康(とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。江戸幕府(えどばくふ=家康が江戸に開いた武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系)政権)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号(しょうごう=呼び名))。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)の三男・長松(ながまつ、1579~1632=のちの徳川秀忠(とくがわ ひでただ)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。江戸幕府の第2代征夷大将軍)が豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)が御成(おなり=宮家(みやけ=※1)、摂家(せっけ=※2)、将軍(しょうぐん=征夷大将軍)など貴人が外出することや訪ねて来ること。 ※1 皇族(こうぞく=天皇の親族(しんぞく=みうち))で特に宮号(みやごう=皇族(こうぞく=天皇の親族)男子が天皇より与えられる称号。宮号を有する者は「○○宮」と称す(しょうす=名乗る))を天皇から与えられた家。※2 摂政(せっせい=天皇が幼いときや女性のときに、天皇に代わって政治を行うひと)・関白に任ぜられる家柄)に招かれて、京へやってきました。この入洛(京都に入る)にあたって、家康が忠興(ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将、大名。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)に長松の礼儀作法や都の文化を教えてやってほしいと依頼され(いらいされ=頼まれ)承諾しました(しょうだく=引き受けました)。徳川家との良好な(りょうこうな=いい)関係が、のちに細川家に大きい支えになりました。秀吉の北条攻め(小田原征伐(おだわら せいばつ)とも言う。天正18(1590)年、秀吉が、北条氏政(ほうじょう うじまさ、1538~1590=相模国(さがみのくに=現在の神奈川県(かながわけん)の大部分(北東部を除く))の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主)と北条氏直(ほうじょう うじなお、1562~1591=武将・大名。相模国の戦国大名。後北条氏の第5代当主)らを攻め、これを滅(ほろ)ぼした戦い)には、2月、忠興は二千七百人を引き連れ出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)し、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ、1568~1595=武将・大名。豊臣氏の2代目関白)を大将とする上方(かみがた=京都およびその付近一帯)勢の一部として参戦しました。

以上所説あり。