細川ガラシャ(17/24)(1594年)

ここでは、1594年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1594年(文禄(ぶんろく)三年)2月、伏見城(ふしみじょう=現在の京都府京都市伏見区桃山地区(きょうとし きょうとし ふしみく ももやまちく)にあった城)建設(けんせつ=建物(たてもの)・道路(どうろ)などを、新たにつくること)工事(こうじ=道路や橋、歩道橋、ダムなどの人が生活するのに必要または生活を便利にするためにつくること)が始まりました。この城は豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、※1)隠居城(いんきょじょう=家督(かとく=一族の長)を譲ったあとに住む城)にするための建築(けんちく=建物(たてもの)を新築(しんちく=新たに建てること))でした。

※1 1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)において天下を統一へ導いた三人)の一人

普請奉行(ふしん=幕府(ばくふ=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)を長とする武士政権)・諸大名(だいみょう=ある地域を支配している者)により設けられた職名の一。邸第(ていだい=やしき)の新築(しんちく=今までの建物(たてもの)に、さらに新たに建て加えること)・修理や土木(どぼく=道路や橋、歩道橋、ダムなどの人が生活するのに必要または生活を便利にするためにつくること)工事を担当。)は石田三成(いしだ みつなり、※2)で、諸大名には堀(ほり=城の周囲を掘って水を湛えた(たたえた=いっぱいにした)所)や石垣(いしがき=石を積み上げてつくった壁)の工事を役(やく=仕事)として課せられました(かせられました=負わせられました)。その賦課(ふか=割り当て)基準は一万貫(かん=体積の単位、1/10石(こく)(一石=一人が一年食べる米の量=現在の180.39 L))に三百人役とも、一万石に二百人役とも言われていました。大名たちにも屋敷割り(やしきわり=屋敷用地のわりふり)がなされ、細川忠興(ほそかわ ただおき、※3)と松井康之(まつい やすゆき、=※4)は「屋敷居宅(きょたく=日常住む家)」を建てました。こうして細川家は丹後宮津(たんご みやつ=現在の京都府宮津市字鶴賀(きょうとふ みやづし あざつるが))を本城(ほんじょう=領主(りょうしゅ=領国(りょうごく=支配する国)を支配している人)が本拠地(ほんきょち)としている城)としつつ、京(きょう=京都)と大阪玉造(おおさか たまつくり=現在の大阪府大阪市中央区玉造(おおさかふ おおさかし ちゅうおうく たまつくり)と天王寺区玉造本町(てんおうじく たまつくりほんちょう)及び玉造元町(たまつくりもとちょう))と伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(きょうとし ふしみく)内)に屋敷を持つことになりました。

※2 1560~1600=武将・大名。豊臣家・家臣(かしん=けらい)

※3 1563~1646=細川ガラシャの夫。武将・大名。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家初代

※4 1550~1612=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。松井正之(まつい まさゆき、※5)の次男

※5 ~1563=将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=※6))・足利義晴(あしかが よしはる、※7)の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)

※6 武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号

※7 1511~1612=室町幕府(むろまちばくふ=※8)第12代将軍

※8 室町時代(むろまちじだい=足利(あしかが)将軍家によって統治されていた時代)における日本の武家政権(ぶけせいけん=※9)。足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が京都で創始した

※9 武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権

いっぽう、秀次(ひでつぐ、※10)家臣団は石垣普請(ふしん=土木(どぼく=道路や橋、歩道橋、ダムなどの人が生活するのに必要または生活を便利にするためにつくること)・建築(けんちく=建物(たてもの)を新築(しんちく=新たに家を建てること)し、増築(ぞうちく=今までの建物に、さらに新たに建て加えること)し、改築(かいちく=建物の全部または一部を新しく建てかえること)し、又は移転(いてん=引っ越し)すること)の工事)、大和多聞山(やまと たもんやま=現在の奈良県奈良市多門町(ならけん ならし たもんちょう))普請に動員して(どういんして=目的遂行の(もくてき すいこう の=目的をなしとげる)ため、人・物を集め動かして)いました。その中、秀次自身の居所(きょしょ=居場所)・聚楽第(じゅらくだい=秀吉が内野(うちの=現在の京都府京都市上京区(きょうとふ きょうとし かみぎょうく))に建てた政庁(せいちょう=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構※11 を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)上の事務などを行う役所)および邸宅)を普請させていました。

※10 1568~1595=武将・大名。豊臣氏の2代目関白

※11 とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめる)する仕組み

そして8月、秀次は秀吉を聚楽第に迎(むか)えようと計画しましたが、秀吉は聚楽第の普請を金銀の浪費(ろうひ=むだづかい)とみて、延期(えんき=決めた期日・期限をのばすこと)を申し渡しました。秀次の行為には制限が加えられ、国内政治は民事(みんじ=当事者間で財産上の請求をしたりされたりすること)・刑事(けいじ=犯人を国の機関が逮捕したり処罰したりすること)共に秀吉が奉行(ぶぎょう=命令を受けて実行すること)を使って行う形態(けいたい=形)に復帰し、秀次は関白としての最低限の仕事に縮少されました。

以上所説あり。