細川ガラシャ(22/24)(1599年)

ここでは、1599年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1599年(慶長(けいちょう)四年) 正月一日に伏見城(ふしみじょう=現在の京都府京都市伏見区桃山(きょうとふ きょうとし ふしみく ももやま)地区にあった城)で豊臣秀頼(とよとみひでより※1)は病気であった前田利家が秀頼を抱いて着席し、諸大名から拝賀(はいが=目上の人に会って、喜び・祝い(いわい=めでたい出来事を喜ぶこと)の言葉を申し上げること)を受けました。

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※1 とよとみ ひでより、1597~1615=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)・秀吉(ひでよし※1-1)の三男

※1-1 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)において天下を統一へ導いた三人(秀吉・織田信長(おだ のぶなが※1-1-1)・徳川家康(とくがわ いえやす※1-1-2)))の一人

※1-1-1 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人。三英傑の一人

※1-1-2 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。豊臣政権(とよとみ せいけん※1-1-2-1)の五大老(ごたいろう※1-1-2-2)の一人。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。江戸幕府(えどばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑の一人

※1-1-2-1 とよとみ せいけん=安土桃山時代の日本における武家政権(ぶけ せいけん※1-1-2-1-1)。 秀吉が、1585年(天正13年)または1590年(天正18年)から創始し、1603年(慶長8年)には完全消滅した

※1-1-2-1-1 ぶけせいけん=武家が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)

※1-1-2-2 ごたいろう=末期の豊臣政権の政務(せいむ=政治(せいじ=国を治める活動)上の事務(じむ=書類の作成など、主として机の上で行う仕事))にあたった徳川家康・毛利輝元(もうり てるもと※1-1-2-2-1)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ※1-1-2-2-2)・前田利家(まえだ としいえ※1-1-2-2-3)・宇喜多秀家(うきた ひでいえ※1-1-2-2-4)の五大名

※1-1-2-2 えどばくふ=徳川家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた(ぶけ せいけん※1-1-2-2-1)

※1-1-2-2-1 もうり てるもと、1553~1625=大名。安芸(あき=現在の広島県(ひろしまけん)西部)毛利氏の当主。

※1-1-2-2-2 うえすぎ かげかつ、1556~1623、大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩(よねざわはん=現在の山形県置賜地方(やまがたけん おきたまちちほう)を納めた藩)の初代藩主。上杉宗家(山内(やまうち=現在の神奈川県鎌倉市山ノ内(かながわけん かまくらし やまのうち))上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢(よねざわ=山形県米沢市(やまがたけん よねざわし))上杉家2代目。

※1-1-2-2-3 まえだ としいえ、1539~1599=武将、戦国大名。加賀(かが=現在の石川県(いしかわけん)南部)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老の一人

※1-1-2-2-4 うきた ひでいえ、1572~1655=武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人

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十日、大風・大雨の中、六十余艘(ろくじゅうよそう=六十あまりの船)で秀吉の遺命(いめい=死ぬ時に残した命令)をまもって大坂城(おおさかじょう=現在の大坂城にあった城)に移り、秀頼の元でその補佐(ほさ=人をたすけて、その務(つと)めをはたさせること)として五大老が機能(きのう=それぞれ荷(に)なっている固有の役割)し始めました。この秀頼の大阪城への移徒(いと=居処(いどころ)をかえること)によって、伏見城は家康の管轄(かんかつ=権限(けんげん=立場によってもつ権利・権力の範囲)によって支配すること)のもと、三奉行(さんぶぎょう※2)が留守居(るすい=留守番)をすることになり、大坂城は利家が「総留守居」となり、三奉行中二名が交代で留守居をするという体制(たいせい=ものの組み立てられた状態)になりました。

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※2 さんぶぎょう=豊臣政権で、五奉行(ごぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行う五人のひと。石田三成(いしだ みつなり、※2-1)、浅野長政(あさの ながまさ、※2-2)、増田長盛(ますだ ながもり、※2-3)、前田玄以(まえだ げんい、※2-4)、長束正家(なつか まさいえ、※2-5))のうち権勢が特に強大であった石田三成・増田長盛・長束正家の三人

※2-1 いしだ みつなり、1560~1600=武将・大名。豊臣家(とよとみけ)家臣(かしん=けらい)。豊臣政権の五奉行の一人

※2-2 あさの ながまさ、1547~1611=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。浅野家14代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分)真壁藩(まかべはん=※2-2-1)初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※2-2-1 まかべはん=常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県桜川市真壁町(いばらきけん さくらがわし まかべちょう))に存在した藩(2-2-1-1)

※2-2-1-1 はん=諸侯(しょこう=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)の大名(だいみょう=ある地域を支配している者))が治める領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)、およびその統治(とうち=まとめおさめること)組織

※2-3 ますだ ながもり、1545~1615=武将、大名。豊臣政権五奉行の一人

※2-4 まえだ げんい、1539~1602=僧侶(そうりょ=お坊さん)・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※2-5 なつか まさいえ、1562~1600=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

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しかし、十九日、二十日に有馬法印(ありま ほういん、1533~1602=有馬法印(ありま ほういん)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。摂津国(せっつのくに=現在の大阪府(おおさかふ)北中部の大半と兵庫県(ひょうごけん)南東部)三田藩(さんだ はん=現在の兵庫県三田市(ひょうごけん さんだし)周辺を領有した藩)主(しゅ=とのさま)。有馬重則(ありま しげのり)の二男)邸(てい=大きくてりっぱな家)で能(のう=日本の古典芸能(日本に古くからある伝統的な芸能の総称)の一つ)の鑑賞(かんしょう=芸術作品などのよさを味わい楽しみ理解すること)として徳川家康、井伊直政(いい なおまさ※3)、藤堂高虎(とうどう たかとら※4)が入り「密談(みつだん=こっそり相談すること)」があり、これに対し奉行(ぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行うひと)方が警戒(けいかい=危険に備えて、あらかじめ注意)する状況が生まれました。

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※3 いい なおまさ、1561~1602=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。井伊氏第24代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。 上野国(こうずけのくに=現在の群馬県(ぐんまけん))高崎藩(たかさきはん※3-1)の初代藩主。後に近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))佐和山藩(さわやまはん※3-2)の初代藩主。徳川三傑(とくがわさんけつ=本多忠勝(ほんだ ただかつ※3-3)、榊原康政(さかきばら やすまさ※3-4)、井伊直政の三名)・徳川四天王(とくがわしてんのう=徳川三傑と酒井忠次(さかい ただつぐ※3-5)の四名)・徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう=徳川四天王と米津常春(よねきづ つねはる※3-6)、高木清秀(たかぎ きよひで※3-7)、内藤正成(ないとう まさなり※3-8)、大久保忠世(おおくぼ ただよ※3-9)、大久保忠佐(おおくぼ ただすけ※3-10)、蜂屋貞次(はちや さだつぐ※3-11)、鳥居元忠(とりい もとただ※3-12)、鳥居忠広(とりい ただひろ※3-13)、渡辺守綱(わたなべ もりつな※3-14)、平岩親吉(ひらいわ ちかよし※3-15)、服部正成(はっとり まさなり※3-16)、松平康忠(まつだいら やすただ※3-17)の十六名)に数えられました。

※3-1 たかさきはん=現在の群馬県高崎市(ぐんまけん たかさきし)周辺を領した藩

※3-2 さわやまはん=現在の滋賀県彦根市古沢町(しがけん ひこねし ふるさわちょう)に存在した藩

※3-3 ほんだ ただかつ、1548~1610=武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩(かずさのくに おおたきはん=現在の千葉県夷隅郡(ちばけん いすみぐん)に存在した藩)初代藩主、伊勢桑名藩(いせ くわなはん=現在の三重県桑名市(みえけん くわなし)に存在した藩)初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原(ふじわら)氏。通称は平八郎(へいはちろう)。

※3-4 さかきばら やすまさ、1548~1606=武将・大名。上野国館林藩(こうずけのくに たてばやしはん=現在の群馬県館林市城町に存在した藩)の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主

※3-5 さかい ただつぐ、1527~1596=武将・大名。三河(みかわ=現在の愛媛県(えひめけん)東半部)の武将。徳川氏の家臣

※3-6 よねきづ つねはる、1524~1612=武将。松平氏(まつだいらし=徳川氏)の家臣

※3-7 たかぎ きよひで、1526~1610=武将。織田氏、徳川氏の家臣

※3-8 ないとう まさなり、1528~1602=武将。徳川氏の家臣

※3-9 おおくぼ ただよ、1532~1594=武将。松平氏の家臣

※3-10 おおくぼ ただすけ、1532~1594=武将・大名。

※3-11 はちや さだつぐ、1539~1564=武将。徳川氏の家臣

※3-12 とりい もとただ、1539~1600=徳川氏の家臣。下総矢作藩(しもうさのくに やはぎはん=現在の千葉県香取市矢作(ちばけん かとりし やはぎ)に存在した藩)の藩祖(はんそ=はんを作った人)

※3-13 とりい ただひろ、~1573=武将。徳川氏の家臣

※3-14 わたなべ りもつな、1542~1620=武将。徳川氏の家臣

※3-15 ひらいわ ちかよし、1542~1611=武将・大名。徳川氏の家臣。上野厩橋藩(こうずけうまやばしはん=現在の群馬県前橋市に置かれた藩。のちの前橋藩(まえばしはん))、のちに尾張犬山藩(おわり いぬやまはん=現在の愛知県犬山市犬山北古券(あいちけん いぬやまし いぬやまきたこけん)を支配した藩)の藩主

※3-16 はっとり まさなり、1542~1596=三河(現在の愛媛県(えひめけん)東部)の武将。通称は服部半蔵(はんぞう)

※3-17 1546~1618=武将。長沢(ながさわ=現在の愛知県豊川市(あいちけん とよかわし)北西部、音羽川(おとわがわ)の源流(げんりゅう=川の水の流れ出るもと)に位置した村)松平家8代当主。江戸幕府旗本(はたもと=戦場で大将のいる本陣(ほんじん=陣営で、総大将がいる場所))。徳川氏の家臣。徳川家康の従弟(じゅうてい=父または母の兄弟姉妹の子で、自分より年少の男性)、義弟(ぎてい=夫または妻の弟)

※4 とうどう たかとら、1556~1630=武将・大名。伊予今治(いよいまばりはん=現在の愛媛県宇和島市(あいちけん うわじまし))藩主、後に伊勢津(いせつ=現在の三重県津市(みえけん つし))藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代

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二十一日には三中老(ちゅうろう=豊臣政権末期に制定された五大老・五奉行の中間にあって政務(せいむ=政治(せいじ=国を治める活動)上の事務(じむ=書類の作成など、主として机の上で行う仕事))を行った職)が安国寺恵瓊(あんこくじ えけい※5)と共に家康邸に訪れ、四大老五奉行より詰問(相手を責(せ)めて厳(きび)しく問いただ)しました。内容は、秀吉が亡くなってから五カ月の間に相談なく伊達政宗(だて まさむね※6)の娘・五郎八(いろは)に家康・六男忠輝(ただてる)を娶(めと)らせ、家康の養女(ようじょ)を福島正則(ふくしま まさのり※7)の子・正之(まさいえ)、蜂須賀家政(はちすが いえまさ※8)子・至鎮(よししげ)と婚約させたことでした。これは掟(おきて)を違反(いはん)するばかりでなく、文禄(ぶんろく)四年七月と慶長三年八月の「霊社上巻起請文(れいしゃ うわまき きしょうもん=北は伊達家から南は島津家までの大名たちに、秀頼への変わらぬ奉公(ほうこう=主人に仕えること)を誓(ちか)わせた文書」が破棄されたことを意味することから、大老、奉行にとっては看過(かんか=見過ごすことは)できない事態(じたい)でした。四大老五奉行は同時に、伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政に対しても使者を立てて詰問し蜂須賀家政だけが事実(じじつ)を認めました。この直後、諸大名は家康方(※9)と利家方(※10)に別れ一触即発(いっしょくそくはつ=ちょっとしたきっかけで大事件に発展しそうな危険なさま)の危機となりました。しかし、この状態は細川忠興と堀尾吉晴(ほりお よしはる※11)の働きで回避し(かいひ=危険や面倒をさけ)ました。忠興は利家と縁家(えんけ=婚姻(こんいん=結婚(けっこん))関係のつながりのある家)であったことと日ごろから仲が良かったことで和睦(わぼく=争いをやめて仲直り)を取り結び、堀尾氏は中老として、双方を往来して、二月十二日に四大老・五奉行に和睦の誓詞(せいし=誓いの言葉)を取り交わしました。

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※5 あんこくじ えいけい、1539~1600=臨済宗(りんざいしゅう=日本仏教においては禅宗(ぜんしゅう=座禅(ざぜん=座布団の上であぐらをかいて姿勢を正し、無念夢想の境地で、精神統一するというもの)を用いた修行を行う仏教の宗派、臨済宗・曹洞宗(そうとうしゅう)・日本達磨宗(にほんだるましゅう)・黄檗宗(おうばくしゅう)・普化宗(ふけしゅう))の1つ)の僧(そう=おぼうさん)で、武将および外交僧(がいこうそう=外部との交際・交渉を行う僧)

※6 だて まさむね、1567~1636=出羽国(ではのくに=現在の山形県(やまがたけん)、秋田県(あきたけん)(北東部除く))と陸奥国(むつのくに=青森県(あおもりけん)、岩手県(いわてけん)、宮城県(みやぎけん)、福島県(ふくしまけん)、秋田県北東部)の戦国大名で、伊達氏の第17代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。仙台藩(現在の現在の岩手県(いわてけん)南部、宮城県(みやざきけん)全域、福島県新地町(ふくしまけん しんちまち)、茨城県(いばらきけん)南部および滋賀県(しがけん)中央部の藩)初代藩主

※7 ふくしま まさのり、1561~1624=武将・大名。賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり=秀吉方で功名をあげた兵のうちの7人。福島正則以外は、脇坂安治(わきざか やすはる※7-1)、片桐且元(かたぎり かつもと※7-2)、平野長泰(ひらの ながやす※7-3)、加藤清正(かとう きよまさ※7-4)、糟屋武則(かすや たけのり※7-5)、加藤嘉明(かとう よしあきら※7-6))の一人

※7-1 わきざか やすはる、1554~1626=武将・大名。淡路国洲本藩(あわじのくに すもとはん=現在の兵庫県洲本市(ひょうごけん すもとし)に存在した藩)主。後に伊予国大洲藩(いよのくに おおずはん=現在の愛媛県大洲市(えひめけん おおずし)に存在した藩)初代藩主。龍野藩(たつのはん=現在の兵庫県たつの市(ひょうごけん たつのし))脇坂家初代

※7-2 かたぎり かつもと、1556~1615=武将。且元系片桐家初代、大和国竜田藩(やまとのくに たつたはん=現在の奈良県生駒郡斑鳩町竜田(ならけん いこまぐん いかるがちょう たつた)に存在した藩(※))初代藩主

※7-3 ひらの ながやす、1559~1628=武将・大名。

※7-4 かとう きよまさ、1562~1611=武将・大名。肥後熊本藩(ひご くまもと はん=肥後国(ひごのくに=現在の熊本県(くまもとけん))で現在の天草市(あまくさし)・球磨郡(くまぐん)を除いた地域を領有し、熊本城を居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)とした藩)。初代藩主。
※7-5 かすや たけのり、1562~1607=加須屋真雄(かすや さねお)。武将・大名

※7-6 かとう よしあきら、1563~1631=武将・大名伊予松山藩(いよまつやまはん=現在の愛媛県松山市(えひめけん まつやまし)を中心に知行(ちぎょう=領地や財産を直接支配すること)した藩(※))および陸奥会津藩(むつ あいづはん=現在の福島県(ふくしまけん)西部と新潟県(にいがたけん)および栃木県(とちぎけん)の一部を治めた藩)初代藩主

※8 はちすか いえまさ、1558~1638=武将・大名。蜂須賀正勝(はちすか まさかつ※8-1)の子。父の代わりに阿波国(あわのくに=現在の徳島県(とくしまけん))の大名に任じられて徳島藩(とくしまはん=現在の徳島県と兵庫県淡路島(ひょうごけん あわじしま)を領有した藩)祖となる。

※8-1 はちすか まさかつ、1526~1586=武将・大名。秀吉の股肱(ここう=一番頼みとする部下)の家臣。徳島藩(とくしまはん=現在の徳島県と兵庫県淡路島を領有した藩)主蜂須賀家の家祖(かそ=その家の祖先(そせん))

※9 家康方=福島正則、森忠政(もり ただまさ※9-1)、池田輝政(いけだ てるまさ※9-2)、織田長益(おだ ながます※9-3)、黒田如水(くろだ じょすい※9-4)・長政(ながまさ※9-5)父子、藤堂高虎、有馬則頼(ありま のりより※9-6)、新庄直頼(しんじょう なおより※9-7)など

※9-1 もり ただまさ、1570~1634=武将・大名。信濃(しなの=長野県(ながのけん)、岐阜県中津川市(ぎふけん なかつがわし)の一部)川中島(かわなかじま)藩主、後に美作津山藩(みまさか つやまはん=現在の岡山県(おかやまけん)東北部の大半を領有した藩)の初代藩主

※9-2 いけだ てるまさ、1565~1613=武将・大名。播磨姫路藩(はりま ひめじはん=現在の兵庫県(ひょうごけん)西南部を治めた藩)の初代藩主

※9-3 おだ ながます、1547~1622=織田信秀の十一男。大名・茶人(利休十哲(りきゅうじってつ※9-3-1)の一人)。長益系織田家嫡流初代

※9-3-1 りきゅうじってつ=千利休(せんのりきゅう=商人、茶人)の高弟(こうてい=弟子(でし)の中で、特にすぐれた弟子)10人。蒲生氏郷(がもう うじさと※9-3-1-1)、芝山宗綱(しばやま むねつな※9-3-1-2)、細川忠興(ほそかわ ただおき※9-3-1-3)、古田重然(ふるた しげなり※9-3-1-4)、瀬田正忠(せた まさただ※9-3-1-5)、高山南坊(たかやま なんぼう※9-3-1-6)、牧村利貞(まきむら としさだ※9-3-1-7)、織田長益、千道安(せん の どうあん、1546~1607=利休の実子)、荒木村重(あらき むらしげ※9-3-1-8)

※9-3-1-1 がもう うじさと、1556~1595=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、茶人。蒲生賢秀(がもう かたひで、1534~1584=武将。六角(ろっかく)氏、織田(おだ)氏の家臣(かしん=けらい))の三男。利休門三人衆(りきゅうもんさんにんしゅう※9-3-1-1-1)、利休七哲(りきゅうしちてつ※9-3-1-1-2)、利休十哲の一人。

※9-3-1-1-1 りきゅうもんさんにんしゅう=千利休(せんのりきゅう=商人、茶人)門下の武将で、茶道に秀でた(ひいでた=すぐれていた)とされる3人の武将。蒲生氏郷、芝山宗綱、細川忠興

※9-3-1-1-2 りきゅうしちてつ=千利休の高弟7人。利休門三人衆と古田重然、瀬田正忠、高山南坊、牧村利貞

※9-3-1-2 しばやま むねつな、?~?=武将

※9-3-1-3 ほそかわ ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将、大名、茶人(利休門三人衆、利休七哲、利休十哲の一人)。のちの豊前小倉藩(ぶせん こくらはん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部にあった藩)初代藩主、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ほそかわけ)初代。

※9-3-1-4 ふるた しげなり、1543~1615=古田織部(ふるた おりべ)。武将、大名、茶人(利休七哲、利休十哲の一人)。

※9-3-1-5 せた まさただ、1548~1595=武将。豊臣氏の家臣。茶人(利休七哲、利休十哲)の一人

※9-3-1-6 たかやま なんぼう、1553~1615=高山右近(たかやま うこん)。キリシタン大名(きりしたん だいみょう=キリスト教に入信、洗礼を受けた大名)。茶人(利休七哲、利休十哲)の一人

※9-3-1-7 まきむら としさだ、1546~1593=武将。茶人(利休七哲、利休十哲の一人)

※9-3-1-8 あらき むらしげ、1535~1586=武将。茶人(利休七哲の一人)

※9-4 くろだ じょすい、1546~1604=黒田官兵衛(くろだ かんべえ)、黒田孝高(くろだ よしたか)。武将・大名。筑前国福岡藩(ちくぜんのくに ふくおかはん=現在の福岡県(ふくおかけん)西部ほぼ全域を領有した藩(※))祖(そ=家系の最初の人)

※9-5 くろだ ながまさ、1546~1604=武将・大名。黒田孝高の嫡男(ちゃくなん=あととり)。筑前国福岡藩初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※9-6 ありま のりより、1533~1602=有馬法印(ありま ほういん)。武将・大名。摂津国(せっつのくに=現在の大阪府(おおさかふ)北中部の大半と兵庫県(ひょうごけん)南東部)三田藩(さんだ はん=現在の兵庫県三田市(ひょうごけん さんだし)周辺を領有した藩(はん※1))主(しゅ=とのさま)。有馬重則(ありま しげのり、?~?=武将)の二男)

※9-7 しんじょう なおより、1538~1613=武将・大名。常陸麻生藩(ひたち あそうはん=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分に存在した藩)の初代藩主

※10 利家方=三大名(細川忠興、加藤清正、浅野幸長(あさの ゆきなが※10-1))・五奉行、加藤嘉明、佐竹義宜(さたけ よしのぶ※10-2)、立花宗茂(たちばな むねしげ※10-3)、小早川秀包(こばやかわ ひでかね※10-4)、小西行長(こにし ゆきなが※10-5)、長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか※10-6)など

※10-1 あさの ゆきなが、1576~1613=武将、大名。紀伊和歌山藩(きい わかやまはん=現在の和歌山県と三重県(みえけん)南部を治めた藩)初代藩主(はんしゅ=とのさま)。浅野家15代当主

※10-2 さたけ よしのぶ、1570~1633=武将、大名。出羽国久保田藩(でわのくに くぼたはん=現在の山形県(やまがたけん)と秋田県(あきたけん))初代藩主。佐竹義重(さたけ よししげ※1)の長男。母は伊達晴宗(だて はるむね※2)の娘。伊達政宗(だて まさむね※3)は母方の従兄(じゅうけい=父または母の兄弟姉妹の子で年上の男性)。佐竹氏19代当主

※10-2-1 さたけ よししげ、1547~1612=武将。常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分)の戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。佐竹氏第18代当主

※10-2-2 だて はるむね、1519~1577=陸奥国(むつのくに=青森県(あおもりけん)、岩手県(いわてけん)、宮城県(みやぎけん)、福島県(ふくしまけん)、秋田県(あきたけん)北東部)の戦国大名。伊達氏15代当主

※10-2-3 だて まさむね=1567~1636=出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。仙台藩(現在の岩手県(いわてけん)南部、宮城県(みやざきけん)全域、福島県新地町(ふくしまけん しんちまち)、茨城県(いばらきけん)南部および滋賀県(しがけん)中央部の藩)初代藩主

※10-3 たちばな むねしげ、1567~1643=武将、大名。陸奥棚倉藩(むつ たなぐらはん=現在の福島県浜通り(ふくしま はまどおり)、福島県中通り(なかどおり)南部、宮城県(みやぎけん)南部を支配していた藩)主、筑後柳河藩(ちくごのくに やながわはん=現在の福岡県(ふくおかけん)南部)の初代藩主

※10-4 こばやかわ ひでかね、1567~1601=毛利秀包(もうり ひでかね)。武将。筑後国久留米(ちくごのくに くるめ=現在の福岡県(ふくおかけん)久留米市)の大名。安芸国(あきのくに=現在の広島県(ひろしまけん)西部)の戦国大名・毛利元就(※10-4-1)の九男で、異母兄(いぼけい=腹違いの兄)である小早川隆景(※10-4-2)の養子(ようし=血縁(げつえん=血のつながり)関係なく親子関係になること)となる。

※10-4-1 もおり もとなり、1497~1571=武将・戦国大名

※10-4-2 こばやかわ たかかげ、1533~1597=.武将。大名。竹原(たけはら)小早川家第14代当主。後に沼田(ぬまた)小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男

※10-5 こにし ゆきなが、1558~1600=武将、大名.。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名(きりしたん だいみょう=キリスト教に入信、洗礼を受けた大名)

※10-6 ちょうそかべ もりちか、1575~1615=土佐国(とさのくに=現在の高知県(こうちけん))の大名(だいみょう=ある地域を支配している者)・武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。長宗我部氏第22代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか※10-6-1)の四男。戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)としての長宗我部氏の最後の当主。

※10-6-1 1539~1599=土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主

※11 ほりお よしはる、1567~1643=武将、大名。豊臣政権三中老の1人

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二月二十九日、利家は病身(びょうしん=病気にかかっている体)を押して、三大名と家臣を従え川舟(川や湖などで用いる喫水(きっすい=船の水面以下に沈んでいる深さ)が浅く細長い船)で伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふ きょうとし ふしみく)内)に出向き、家康と会談し(かいだんし=面会して話しあい)、家康に伏見城を出て向島(むかいじま=現在の京都府京都市伏見区向島)に移るよう勧告し(かんこく=ある事をするように説きすすめ)ました。三月、今度は家康が大坂に下り、利家邸に入り、饗応(きょうおう=酒や食事などを出してもてなすこと)を受けたのは、忠興のほか池田・福島・黒田・堀尾・藤堂などで、石田三成までやってきたので、参会の(さんかい=会合に参加した)面々は驚きました。この和睦で忠興の名はあがりました。そして、三月二十六日、利家の勧告に従って家康は向島の屋敷に移りました。閏三月三日、ここまで秀吉亡き後の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)の主導(しゅどう=中心となって他を導(みちび)くこと)してきた前田利家が亡くなりました。六十二歳でした。この利家の死で利家方の大名たちの間に、分裂という事態が起こりました。閏三月七日、忠興・池田輝政・加藤清正・浅野幸長・福島正則・黒田長政・加藤嘉明の七人衆が内談(ないだん=相談)をした結果、石田三成の我意(がい=自分の考えを押し通そうとする気持。わがまま)の振舞(ふるまい)に対し、十一ヵ条の譴責状(けんせきじょう=規則に反した者や信用を失わせるような行為を行った者などに対し、始末書を書かせて提出させ、戒める(いましめる=あやまちのないように注意を与える)こと)を認め、家康に提出、石田討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗(はんこう)する者をうち滅(ほろ)ぼすこと)を議論する(ぎろんする=意見を論じ合う)ことになりました。ところが家康は、太閤の五奉行にまでなった三成を殺したら、家康は我儘(わがまま)が過ぎると噂(うわさ)されてしまうことを恐れ、三成の命は自分(家康)が貰(もら)い受けるといって、逆に三成を救うかたちになりました。三成はすぐさま佐和山城(さわやまじょう=現在の滋賀県彦根市(しがけん ひこねし)の佐和山に存在した城)に逼塞(ひっそく=謹慎(きんしん=上級の武士に適用(てきようさ=法律・規則・方法などを物事に当てはめて使うこと)された名目(めいもく=呼び方)上の刑で、門戸(もんと=家の出入り口)を閉じて昼間の出入りを禁じたもの)すること)させられました。この事件を機に、池田、森、福島、浅野、黒田、加藤などの諸大名は結束を固めることになりました。一方、宇喜多、島津、佐竹、立花などの大名は三成を救おうと態勢を整え始めました。宇喜多秀家は前田利長(まえだ としなが、1562~1614=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。加賀藩(かがはん=現在の石川県(いしかわけん)南部と石川県(いしかわけん)北部(能登半島(のとはんとう))と富山県(とやまけん)の大半を領地とした藩)初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男)の縁者で、正室は前田利家の娘で秀吉の養女となっていた豪姫(ごうひめ、1574~1634=前田利家の四女)で、忠隆の正室は豪姫の妹・千世(ちよ、1580~1641=春香院(しゅんこういん)。前田利家の七女)であったので、忠興から秀家を家康方に誘ったが、叶いませんでした。閏三月二十三日、向島に居た家康は、堂々と伏見城に入りました。そして五月には大坂城を巡見(じゅんけん=実際にその場所に行って状況を調べ見きわめること)し、九月には大坂城に入って淀殿(よどどの※12)・秀頼に謁見(えっけん=身分の高い人にお目にかかること)し、同月二十八日、家康は大坂城の西の丸に正式に入りました。ここで、三成の讒言(ざんげん=事実をまげ、いつわって人を悪く言うこと)で前田利長と忠興が申し合わせて討ち上がるという嫌疑(けんぎ=悪い事をしたのではないかという疑い)がかかりました。しかし、細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、1534~1610=細川藤孝(ほそかわ ふじたか)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。詩人。忠興の父)の誓詞(せいし=誓いの言葉)や家康の家臣・榊原康政が予(かね)てより忠興と親しかったことにより解消され、家康の疑いが晴れ、十一月に家康・秀忠に忠興は別心がない旨の誓詞を指し出し、今後、加賀前田家と関係を持たないこと、証人(しょうにん=人質)として忠興の三男・光千代を江戸に遣わすことが決まりました。いっぽう前田家は家老横山氏が忠興の仲介で井伊直政を通じて家康に申し開きをなし、その後、利長の母・まつを人質として江戸へ送ることに決まりました。

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※12 よどどの、1569~1615=浅井茶々(あさい ちゃちゃ)。豊臣秀吉の側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)。浅井長政(あざい ながまさ※12-1)の三女で、母は織田信秀(おだ のぶひで※12-2)の娘・市(いち=織田信長の妹)。浅井三姉妹の一人、次女・初(はつ)、三女・江(ごう)

※12-1 おだ のぶひで、1545~1573=武将。北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本地区(ひこねし とりいもとちく))の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主

※12-2 1511~1552=尾張国(おわりのくに=現在の愛知県(あいちけん)西部)の武将、戦国大名。織田信長の父

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以上所説あり。