細川ガラシャ(19/24)(1595年<2>)

ここでは、1595年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1595年(文禄(ぶんろく)四年)7月13日の豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ=※1)が謀叛(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こすこと)の汚名(おめい=悪いうわさ)で生害(しょうがい=自殺)させられた事件の影響は、細川家に及びました。前野長重(まえの ながしげ=※2)の妻が忠興の長女であったためでした。伏見(ふしみ=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふ きょうとし ふしみく)内)の屋敷に秀吉から、秀次に一味(いちみ=同じ仲間)し、黄金百枚を囉(らした=もらった)由(ゆう=わけ)、実否分明(じっぴ ぶんめい=真実か、いつわりか、はっきりするまで)の間、閉門(へいもん=門を閉じて家にこもるという罰として課せられた刑の一つ)仕る(つかまる=いたす)べしとの命が下りました。石田三成(いしだ みつなり=※3)、長束正家(なつか まさいえ=※3-5)、前田玄以(まえだ げんい=※3-4)などが相談し、忠興(ただおき=※4)に切腹(せっぷく=自分で腹を切って死ぬこと)すべきだと書状(しょじょう=手紙)を調えていたところ、玄以は日ごろから忠興と仲が良かったので、竹田永翁(=父・竹田松梅軒(たけだ ばいしょうけん)、妻は細川家家臣(かしん=けらい)・沼田光長(むまた みつなが、~1565)の息女(そくじょ=身分ある人の娘))を忠興のもとに走らせました。その後、永翁より三成の讒口(ざんこう=他人をおとしいれようとして、いつわって悪く言うこと)がしきりである由、松井康之(まつい やすゆき=※5)に知らせがありました。忠興はこの状況に対して、年来の戦功(せんこう=戦いの手柄)を対して恩賞(おんしょう=てがらをほめて主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)が賞を与えること)があって然る(しかる)べきであるのに、日ごろ仲の悪い三成のために、僅かの恩補(おんぽ=恩賞として職に任ぜられること)もないので、有功(ゆうこう=手柄のあること)の家僕(かぼく=雇(やと)われて雑用(ざつよう=こまごました、いろいろの用事)をする男)を賞すべき手段もない、この上は、三成を討って自ら自害(じがい=自殺すること)すると言い、憤り(いきどおり=怒り)をあらわにしました。そして、黄金百枚は拝領した(はいりょうした=目上の人から物をいただいた)のではなく、借用(しゃくよう=借りて使うこと)したと、玄以などを頼り、秀吉に言上し(ごんじょうし=目上の人に申し上げ)ました。すると秀吉は、先年、明智光秀(あけち みつひで=※6)にさえ組しなかったのだから、黄金百枚で秀次の謀叛の徒党(ととう=不穏(ふおん=おだやかでないこと)なことを起こそうとして集まること)になることはないだろうが、謀叛の一味・前野長重は忠興の縁者(えんじゃ=父方の一族)であり、まずは黄金百枚を返し、娘・長(ちょう=長重の妻)を差し出すよう催促(さいそく=早くするようにせか)してきました。そこで前田利家(まえだ としいえ=※7)からと松井康之を使者に徳川家康(とくがわ いえやす=※8)から黄金百枚を工面して秀吉に返納しました。そして長は離婚(りこん=夫婦が別れること)そして剃髪(ていはつ=髪を剃(そ)ること)して「安昌院心月妙光(あんしょういん しんげつ みょうこう)」と名付けて「浄土門(じょうどもん=釈迦(しゃか=仏教の開祖(かいそ=ある宗教を新たに開始した人))の教えを分類大別した呼称。聖道門(しょうどうもん)と浄土門に二大別する)」に入れ、長を差し出すことを免除(めんじょ=義務(ぎむ=立場上、身分上当然しなければならないこと)などを果たさなくてもよいと許すこと)され、秀吉は忠興に黄金百枚を与え、「有明の茶入れ」を与えました。長の救われ方は、以前ガラシャが父に縁坐(えんざ=犯罪責任の一端が、犯人と一定の親族関係に立つ第三者にまで拡大される連帯責任制度の一種)せず命を救われた姿とまったく同じでした。9月、秀吉側室淀殿(よどどの、※9)の妹・江(ごう)家康三男・秀忠(ひでただ、1579~1632=武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍)が婚姻(こんいん=結婚(けっこん))しました。

※1 1568~1595=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。豊臣氏の2代目関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))

※2 ~1595=前野景定(まえの かげさだ)、本名・坪内景定(つぼうち かげさだ)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。豊臣氏(とよとみし)の家臣(かしん=けらい)

※3 1560~1600=武将・大名。豊臣家(とよとみけ)家臣(かしん=けらい)。豊臣政権(せいけん=※3-1)の五奉行(ごぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行う五人のひと。三成以外は、浅野長政(あさの ながまさ、※3-2)、増田長盛(ますだ ながもり、※3-3)、前田玄以(まえだ げんい、※3-4)、長束正家(なつか まさいえ、※3-5))の一人

※3-1 政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力

※3-2 1547~1611=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。浅野家14代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分)真壁藩(まかべはん=※3-2-1)初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※3-2-1 常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県桜川市真壁町(いばらきけん さくらがわし まかべちょう))に存在した藩(はん=江戸時代(えど=徳川将軍家が日本を統治し(まとめおさめ)ていた時代)、大名の領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)と統治機構)

※3-3 1545~1615=武将、大名。豊臣政権五奉行の一人

※3-4 1539~1602=僧侶(そうりょ=お坊さん)・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※3-5 1562~1600=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※4 1563~1646=細川ガラシャの夫。武将。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ほそかわけ)初代

※5 1550~1612=武将。松井正之(まつい まさゆき、※5-1)の次男。
※5-1 ~1563=将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=※2))・足利義晴(あしかが よしはる、※3)の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)。
※5-2 武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。
※5-3 1511~1612=室町幕府(むろまちばくふ=※4)第12代将軍。
※5-4 室町時代(むろまちじだい=足利(あしかが)将軍家によって統治されていた時代)における日本の武家政権(ぶけせいけん=※5)。足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が京都で創始した。
※5-5 武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権。)

※6 ~1582=武将、大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)

※7 1539~1599=武将、戦国大名(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代で、各地に領国を形成した大名)。加賀(かが=現在の石川県(いしかわけん)南部)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人

※8 1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ=※8-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(家康・織田信長(おだ のぶなが、※8-2)・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、※8-3)))の一人

※8-1 家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん=※1-1)

※8-2 1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将(ぶしょう=武士の大将)・戦国大名。のちの天下人。三英傑の一人

※8-3 1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人

※9 1569~1615=茶々(ちゃちゃ)。豊臣秀吉の側室。浅井長政の三女で、母は織田信秀(おだ のぶひで、1511~1552=尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父)の娘・市(いち=織田信長の妹)。浅井三姉妹の一人、次女・初(はつ)、三女・江(ごう)

以上所説あり。