細川ガラシャ(24/24)(1600年 <2>)

ここでは、細川ガラシャが亡くなった1600年(つづき)を勉強します。

1600年(慶長(けいちょう)五年)、細川忠興(ほそかわ ただおき※1)が上杉景勝(うえすぎ かげかつ※2)討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗(はんこう)する者をうち滅(ほろ)ぼすこと)のために宇都宮(うつのみや=現在の栃木県(とちぎけん)宇都宮市)に着いた7月16日、ガラシャの居る大坂の屋敷では、石田三成(いしだ みつなり※3)方(かた)から大坂城に登城(とじょう=城に参上すること。ここでは人質を意味する)の要求がありました。老臣(ろうしん=年をとった家来)たちは「細川の屋敷は大坂城から近いので、このままにして置いていただきたい」と返答しました。しかし再三(さいさん=二度も三度も)石田から使者が来て、「是非自ら人質になっていただきたい。さもなくば無理にでも人質になっていただく」と確固たるもの(かっこ=ハッキリしたもの)に変化しました。屋敷内の老臣たちは、「我々が切腹してでも(せっぷくしてでも=自分で腹を切って死んででも)、人質には出しません」と返答しました。この時から屋敷中の者は覚悟し(かくごし=きたるべきつらい事態を避(さ)けられないものとして、あきらめ)ました。

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※1 ほそかわ ただおき、1566~1619=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。常陸谷田部(ひたち やたべ)細川家初代・下野茂木(しもつけ もてぎ)藩主(はんしゅ=とのさま)。のち常陸(ひたち=茨城県の大部分)谷田部藩(やたべはん=常陸にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※2 うえすぎ かげかつ、1556~1623、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。

※3 いしだ みつなり、1560~1600=武将・大名。豊臣家(とよとみけ)家臣(かしん=けらい)。豊臣政権(とよとみ せいけん=※3-1)の五奉行(ごぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行う五人のひと。三成以外は、浅野長政(あさの ながまさ、※3-2)、増田長盛(ますだ ながもり、※3-3)、前田玄以(まえだ げんい、※3-4)、長束正家(なつか まさいえ、※3-5))の一人

※3-1 とよとみ せいけん=安土桃山時代(あづちももやまじだい※3-1-1)の日本における武家政権(ぶけ せいけん※3-1-2)。 豊臣秀吉が、1585年(天正13年)または1590年(天正18年)から創始し、1603年(慶長8年)には完全消滅した

※3-1-1 あづちももやまじだい=織田信長(おだ のぶなが※3-1-1-1)と豊臣秀吉(とよとみ ひでよし※3-1-1-2)が政権(せいけん=※3-1-1-3)を握っていた時代
※3-1-1-1 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人
※3-1-1-2 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人

※3-1-1-3 せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力

※3-1-2 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権

※3-2 あさの ながまさ、1547~1611=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。浅野家14代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分)真壁藩(まかべはん=※3-2-1)初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※3-2-1 常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県桜川市真壁町(いばらきけん さくらがわし まかべちょう))に存在した藩(はん=江戸時代(えど=徳川将軍家が日本を統治し(まとめおさめ)ていた時代)、大名の領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)と統治機構)

※3-3 ますだ ながもり、1545~1615=武将、大名。豊臣政権五奉行の一人

※3-4 まえだ げんい、1539~1602=僧侶(そうりょ=お坊さん)・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※3-5 なつか まさいえ、1562~1600=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

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ガラシャは「大坂城に入って恥(はじ)を晒(さら)すことは断(だん)じてならない、石田のものが押し入って来たら速やかに自害(じがい=自殺)する」と言いました。小笠原少斎(おがさわら しょうさい※4)はガラシャに「丹後(たんご=現在の京都府(きょうとふ)北部)へ、お逃がししたい」と述べましたが、ガラシャは、「忠興は逃げることを許容(きょよう=よいとして認めることは)しない人です。出陣される(しゅつじんされる=戦争に出向かれる)前夜に話をしたこと、一足(ひとあし=一歩)も屋敷の外へは出ることはありません、このことは守らねばならない」と言うと、少斎は「忠興君(ぎみ)は御出馬(ごしゅつば)の際、『何事かある場合には恥なきないよう計らえ(はからえ=あれこれと考えて,物事をうまく処理すること)』とくれぐれも仰せおかれ(おおせおかれ=おっしゃられ)、このように決心されたうえは、清く(きよく=未練(みれん=あきらめ切れないこと)がなくさっぱりと)死を遂げ(とげ=果たし)、御供(おとも=目上の人などに、つき従っていくこと)いたします」と述べ、家中(かちゅう=家の中の者全員)の者は用意をしました。ガラシャは「敵が押し入ったならば自害するので、少斎が介錯する(かいしゃくする=切腹(せっぷく=腹を切る)人のそばにつき、首を切る)ように」と老臣に言いつけました。また、嫡男・忠隆(ただたか※5)の妻・千世(ちよ)は、「私も同じく自害しようと思ってます」と言いました。同居していた忠興の叔母(おば=父や母の姉妹)にあたる藤孝(ふじたか※6)の妹・宮川殿(みやがわどの)を屋敷から出立させると、ガラシャは「最早(もはや=もう)心残りはない」と書き置き認め(したため=文章に書いて)、覚悟を決めて待受けていました。

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※4 おがさわら しょうさい、~1600=小笠原秀清(ひできよ)。武将。細川氏家臣。細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ※1)を介錯した人物

※5 ほそかわ ただたか、1580~1646=武将。細川忠興の長男

※6 ほそかわ ふじたか、1534~1610=のちの細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)。武将、大名。詩人。細川忠興の父

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7月17日、丹後では幽斎が田辺城(たなべじょう=現在の京都府舞鶴市(きょうとし まいづるし)にある城)で籠城(ろうじょう=城にこもり敵と戦うこと)とするという急展開となっていました。そして同日の夕刻(ゆうこく=夕方)、玉造(たまつくり=現在の大阪府大阪市中央区玉造(おおさかふ おおさかし ちゅうおうく たまつくり)と天王寺区玉造本町(てんおうじく たまつくりほんちょう)及び玉造元町(たまつくりもとちょう))の屋敷に、石田方の催促(さいそく=早くするようにせかすこと)の使いが大人数でやってきて、屋敷を囲みました。石田方と交渉がなされたが妥結(だけつ=利害(りがい=得することと損すること)の対立する二者が、同意に達して約束を結ぶに至ること)せず、屋敷内に押し入ろうとしてきました。少斎と河北石見(かわきた いわみ※7)は奥に入ってガラシャに報告し、ガラシャは自害の支度(したく=準備)をしました。忠隆の妻は近くの宇喜多秀家(うきた ひでいえ※8)宅へ避難させ、老女・霜とおく以外の侍女には暇(いとま=その時まで続く事柄を断ち切り、そこから離れた状態)を出しました。霜とおくには「子供のことは、私のために子であれば、忠興のためにもこであることから改めて言うに及ばない、三宅藤兵衛(みやけ ふじべえ※9)を頼みにしている。この上言わずもがなのことながら、側室・藤(ふじ※10)を正室代わりにされるこはないように」と遺言(ゆいごん=自らの死後のために遺(のこ)した言葉や文章)と形見の品を託しました。二人は是非御供(おとも=殉死(じゅんし=主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)が死亡したときに、臣下があとを追って自殺))したいと言うと、ガラシャは「自分の言葉に背(そむ)くなら、死んでも嬉(うれ)しいとは思わない、永らえて最期(さいご=命の終わるとき。死にぎわ)の様子を後世(こうせい=のちの時代)に伝えたならば、満足である」と言いました。そして「心にかゝる事なし」と言い、自ら髪をきりきりと巻き上げ、畳の上で、少斎に胸元を長刀(なぎなた=長い柄(え)の先に反(そ)り返(かえ)った長い刃をつけた武器)で突かせて自害しました。自ら自害しなかったのはガラシャがキリシタン(きりしたん=ポルトガル語でキリスト教徒(きりすときようと=イエスを救世主として信じる宗教の信者)。英語でクリスチャン)で、自殺は教義(きょうぎ=ある宗教・宗派が真理(しんり=いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道(すじみち=物事を行うときの正しい順序))と認めている教えの内容・体系)上禁じられていたからでした。霜とおくは最期を見届け、邸外に出ました。少斎は表に移り、石見は家人(けにん=家につかえる者。けらい)山内新左衛門(やもち しんざえもん)を関東に遣わし、そしてガラシャの遺骸(いがい=なきがら。遺体。死体)に蔀(しとみ=和風建築で、格子(こうし)の裏に板を張り、引き上げれば釣り金具でとめられるようにした戸)・遣り戸(やりど=引き戸のこと)を懸(か)け、部屋には鉄砲の火薬を撒(ま)いて火を点けました。そして少斎と石見は河北の家人・河北六右衛門(かわきた ろくうえもん)の介錯で自害し、家人は台所の土間で切腹、金津助次郎(かなつ すけじろう)は台所が焼け上がったので、屋根の上で切腹しました。尚、警備をしていた稲富祐直(いなとみ すけなお※11)は屋敷から逃げていました。こうしてガラシャは細川邸から一歩も外へ出ることなく、家臣や侍女に対する指示も完璧に成し終えて自害しました。そのガラシャの辞世(じせい=この世に別れを告げること)の歌は、「散りぬへき 時しりてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ(花は散るときを知ってこそ花なのであり、人間もそうなければならない、今こそ散るときである)」でした。享年三十八でした。

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※7 かわきた かずなり、~1600=明智氏家臣。ガラシャ輿入れに従い細川家家臣に。ガラシャの味土野(みどの=現在の京都府京丹後市弥栄町味土野(きょうとふ きょうたんごし やさかちょういもの))幽閉(ゆうへい=ある場所に閉じこめて外に出さないこと)にも供した。

※8 うきた ひでうえ、1572~1655=武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人

※9 みやけ ふじべえ、1581~1637=三宅重利(みやけ しげとし)。武将

※10 ふじ、~1629=松之丸。荒木村重(あらき むらしげ※10-1)の家臣であった郡宗保(こおり むねやす、1546~1615=武将)の娘

※10-1 あらき むらしげ、1535~1586=武将・大名。茶人(利休十哲(りきゅうじってつ=千利休(せんのりきゅう=商人、茶人)の高弟(こうてい=弟子(でし)の中で、特にすぐれた弟子)10人)の一人)

※11 いなとみ すけなお、1552~1611=武将、砲術家(ほうじゅつか=火砲(かほう=大砲)の操作、射撃、火薬の調合などを行う武術に優れている人)。稲富流砲術の開祖(かいそ=ある宗教を新たに開始した人)

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忠興には、17日に丹後と大坂がこのような状況になっていることは、もちろん知りませんでした。21日、徳川家康(※12)は江戸を出発し、22日に宇都宮に着き、忠興もここへ移動して家康・秀忠(※13)側に控えると、秀忠の計らいで忠興は三男・光千代(みつちよ※14)と対面しました。24日、家康は小山(おやま=現在の栃木県小山市(とちぎけん おやまし))の旧城に到着し、ここを本陣に定めました。この日の晩、伏見の城代(じょうだい=城主が出陣して(しゅつじんして=戦争に出向いて)留守の場合,城を預かる者)鳥居彦右衛門(とりい ひこえもん※15)から大坂の様子を知らせる飛脚(ひきゃく=速く走り、手紙を運ぶ者)が来ました。山内一豊(やまうち かずとよ※16)の妻千代が文箱を一豊に届け、それを開けずに家康に渡し、25日、家康は諸将を本陣に集めました。そこで、書状を読みました。「石田三成の逆心(ぎゃくしん=そむく心)の報告が来た、上杉景勝と示し合わせているように見える、従ってその他の大老(たいろう=執権者(しっけんしゃ=諸大名(だいみょう=(だいみょう=ある地域を支配している者))の家臣(かしん=けらい))を補佐(ほさ=人をたすけて、その務(つと)めをはたさせること)した職の最上位)・奉行(ぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行う者)も大概(たいがい=大体)一味(いちみ=同じ仲間)であろう、各々は大坂に人質を置いているのだから上洛しよう(じょうらくしよう=京都に行きたい)と思うものは勝手次第である(かってしだいである=自分の思いどおりにしてよい)」と述べると、福島正則(ふくしま まさのり※17)が旗下(きか=大将の支配下)に属すと申し述べ、それに続いて諸将は皆家康に従うことを表明したことで大坂への進軍(しんぐん=軍を進めること)が決定しました。27日、上美濃(かみみの=現在の現在の岐阜県(ぎふけん)南部の北)に西進の中、小出吉政(こいで よしまさ※18)からの家康宛ての使者が、忠興の前で下馬(げば=馬から下りること)して、17日の大坂の御屋敷の状況(ガラシャが自害したこと、忠隆の奥様は前田利長の屋敷に入られたこと)を言上(ごんじょう=目上の人に申し上げること)しました。忠興、弟・興元(おきもと※19)をはじめとして、ガラシャの「義心(ぎしん=正義を通そうとする心)」を感じて皆が落涙(らくるい=涙を落と)し、忠興は「三成を亡ぼして讐(あだ=かたき)を報じる」と大変な恨(うら)みようでした。石見が遣わした山内新左衛門が忠興の基に着いたのは8月5日でした。

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※12 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。豊臣政権の五大老の一人。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。江戸幕府(えどばくふ※12-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(家康・織田信長・豊臣秀吉))の一人

※12-1 とくがわ ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん※12-1-1)

※12-1-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)

※13 とくがわ ひでただ、1579~1632=家康の三男。武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍

※14 みつちよ、1586~1641=細川忠利(ほそかわ ただとし)の幼名。細川忠興(※1)の三男で、母は明智光秀の娘・玉子(ガラシャ※2)。江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)前期の大名、豊前小倉藩(ぶぜんこくらはん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部にあった藩(※3))の第2代藩主。後に肥後熊本藩(ひごくまもとはん=現在の熊本県の球磨郡(くまぐん)・天草郡(あまくさぐん)を除く地域と大分県の一部(鶴崎(つるさき)・佐賀関(さがのせき)など))の初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※15 とりい ひこえもん、1539~1600=鳥居元忠(とりい もとただ)。徳川氏(とくがわし)の家臣(かしん=けらい)。下総矢作藩(しもうさのくに やはぎはん=現在の千葉県香取市矢作(ちばけん かとりし やはぎ)に存在した藩(はん※1))の藩祖(はんそ=はんを作った人)。徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう※2)の一人

※16 やまうち かずとよ、1545~1605=武将、大名。土佐山内氏(とさやまうちし=藤原北家秀郷流の備後山内氏(ふじわらほっけ ひえさとりゅう の ぶんご うちやまし※1)の分家)、土佐藩(とさはん※2)初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※16-1 ふじわらほっけ ひえさとりゅう の ぶんご うちやまし=藤原房前(ふじわら の ふささき※16-1-1)が祖で藤原秀郷(ふじわら の ひでさと※16-1-2)の流れを継ぐ佐藤氏(さとうし)から発生した一族

※16-1-1 ふじわら の ふささき、681~737=飛鳥時代(あすかじだい=飛鳥(あすか=現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥(ならけん たかいちぐん あすかむら おおあざ あすか)周辺)に都城(とじょう=城の周囲を取り囲む壁や石垣(いしがき=石を積み上げてつくった壁))が置かれていた592年(崇峻天皇(すしゅんてんのう)5年)から710年(和銅(わどう)3年)にかけての118年間を指す)から奈良時代(ならじだい=平城京(現在の奈良県奈良市(ならけん ならし))に都が置かれた710年(和銅3年)~794年(延暦(えんりゃく)13年)にかけての74年間を指す)前期にかけての貴族(きぞく=身分や家柄の尊い(たっとい=地位・身分などがきわめて高い)人)。藤原不比等(ふじわら の ふひと=※16-1-1-1)を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家(ふじわらほっけ)の祖(そ=祖先)。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。

※16-1-1-1 659~720=飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿(くぎょう=※16-1-1-1-1)。藤原鎌足(ふじわら の かまたり=※16-1-1-1-2)の次男

※16-1-1-1-1 公(こう)と卿(けい)の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官(ちょうかん=役人)をいう。参議は四位も含める。

※16-1-1-1-2 614~669=飛鳥時代の政治家(せいじか=国を治める活動)。日本の歴史における最大氏族「藤原氏(ふじわら うじ)」の始祖(しそ=ある家系の最初の人)。

※16-1-2 ふじわら の ひでさと、891~958=平安時代(へいあん じだい=)中期の貴族(きぞく=身分や家柄の尊い(たっとい=地位・身分などがきわめて高い)人)、豪族(ごうぞく=大きな富や勢力(せいりょく)を持つ一族)、武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。

※16-2 とさはん=土佐国(とさのくに=現在の高知県)一円(いちえん=全域(ぜんいき))を領有した(りょうゆうした=自分のものとして持った)外様藩(とざまはん=※16-2-1)

※16-2-1 将軍の一門(いちもん=一族)または譜代(ふだい=代々その家系を継いで来ること)の家臣(かしん=けらい)でない藩(はん=諸侯(しょこう=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)の大名(だいみょう=ある地域を支配している者))が治める領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)、およびその統治組織)

※17 ふくしま まさのり、1561~1624=武将・大名。賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり=秀吉方で功名をあげた兵のうち7人。脇坂安治(わきざか やすはる)、片桐且元(かたぎり かつもと)、平野長泰(ひらの ながやす)、福島正則、加藤清正(かとう きよまさ※17-1)、糟屋武則(かすや たけのり)、加藤嘉明(かとう よしあきら※17-2))の一人

※17-1 かとう きよまさ、1562~1611=武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。肥後熊本藩(ひご くまもと はん=肥後国(ひごのくに=現在の熊本県(くまもとけん))で現在の天草市(あまくさし)・球磨郡(くまぐん)を除いた地域を領有し、熊本城を居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)とした藩)。初代藩主。
※17-2 かとう よしあきら、1563~1631=武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。伊予松山藩(いよまつやまはん=現在の愛媛県松山市(えひめけん まつやまし)を中心に知行(ちぎょう=領地や財産を直接支配すること)した藩)および陸奥会津藩(むつ あいづはん=現在の福島県(ふくしまけん)西部と新潟県(にいがたけん)および栃木県(とちぎけん)の一部を治めた藩)初代藩主

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天守の人質としては池田輝政(いけだ てるまさ※18)室、藤堂高虎(ふじどう たかとら※19)室、有馬豊氏(ありま とようじ※20)室、加藤嘉明室で、黒田長政(くろだ ながまさ※21)室、加藤清正室らは本国に向って大坂を密かに出ていました。また、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚きそれ以上人質を取りませんでした。9月、三成から大坂の増田長盛(ますだ ながもり※22)への連絡によって殺害されることが決まりましたが、石田方からの使者が途中で家康方に捕らえられたため、殺害を免(まぬが)れることができました。9月15日、関ケ原で家康が率いる徳川軍(東軍)と三成を中心とした石田軍(西軍)激突し、西軍のついていた小早川秀秋軍が裏切り東軍が勝利しました。勝利後、家康は忠興に対して「このたび忠興の妻が義(ぎ=守るべき正しい道)を守って自害したので、三成は畏(おそ)れて人質を増やすことができなかった、今悉く(ことごとく=残らず)諸大名の人質を取り返すことができたのは、是皆(これみな)、忠興夫婦の忠義(ちゅうぎ=まごころ)である」と褒められました。ガラシャの壮絶な死は細川家の立場を守る「義死(ぎし=正義のための死)」となりました。翌年(慶長六年)八月、忠興はオルガンティノ神父(おるがんてぃの しんぷ※23)に依頼して、大坂の教会でガラシャの葬儀が行われました。

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※18 いけだ てるまさ、1565~1613=武将・大名。播磨姫路藩(はりま ひめじはん=現在の兵庫県(ひょうごけん)西南部を治めた藩(※))の初代藩主(はんしゅ=とのさま)

※19 ふじどう たかとら、1556~1630=武将・大名。伊予今治(いよいまばりはん=現在の愛媛県宇和島市)藩主、後に伊勢津(いせつ=現在の三重県津市)藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代

※20 ありま とようじ、1533~1602=武将・大名。丹波国福知山(たんばのくに ふくちやま=現在の京都府福知山市内記(きょうとふ ふくちやまし ないき))藩主、のち筑後国久留米(とくごのくに くるめ=現在の福岡県(ふくおかけん)久留米市)藩の初代藩主。久留米藩有馬家2代。

※21 くろだ ながまさ、1546~1604=武将・大名。黒田孝高(くろだ よしたか、1546~1604=武将・大名。筑前国福岡藩(ちくぜんのくに ふくおかはん=現在の福岡県(ふくおかけん)西部ほぼ全域を領有した藩(※))祖(そ=家系の最初の人))の嫡男(ちゃくなん)。筑前国福岡藩初代藩主

※22 ますだ ながもり、1545~1615=武将、大名。豊臣政権五奉行(ごぶぎょう=上位者の命令を受けて実際に行う五人のひと。長盛以外は、浅野長政(あさの ながまさ※22-1)、前田玄以(まえだ げんい※22-2)、石田三成、長束正家(なつか まさいえ※22-3))の一人

※22-1 あさの ながまさ、1547~1611=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。浅野家14代当主。常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県(いばらきけん)の大部分)真壁藩(まかべはん※22-1-1)初代藩主

※22-1-1 まかべ はん=常陸国(ひたちのくに=現在の茨城県桜川市真壁町(いばらきけん さくらがわし まかべちょう))に存在した藩(はん=江戸時代(えど=徳川将軍家が日本を統治し(まとめおさめ)ていた時代)、大名の領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)と統治機構)

※22-2 まえだ げんい、1539~1602=僧侶(そうりょ=お坊さん)・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※22-3 なつか まさいえ、1562~1600=武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人

※23 おるがんてぃの しんぷ、1533~1609=グネッキ・ソルディ・オルガンティノ。イタリア・カストで生まれ、22歳でイエズス会(いえすずかい※23-1)に入会し、1556年にイタリア・フェラーラでイエズス会司祭に就任しました。イタリア・ロレートの大神学校、インドの西海岸・ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣。来日は1570年(元亀元年)で、天草志岐にその第一歩をしるした。着任後まず日本語と日本の習慣について学び、1573年(天正元年)から1574年(天正2年)にかけて法華経(ほけきょう=大乗仏教(だいじょうぶっきょう=仏教の一派)の代表的な経典(きょうてん=仏教において釈迦(しゃか=仏教の開祖(かいそ=開いた人))が説いた教え(といたおしえ=物事がそうあるべきわけ)を記録した聖典(せいてん=教え・きまりを説いた書物))を研究した。 天正5年から30年にわたって京都(きょうと=現在の京都府)の布教(ふきょう=宗教を広めること)責任者をつとめました。

※23-1 いえすずかい=カトリック教会(かとりっくきょうかい=キリスト教最大の教会)の修道会(しゅうどうかい=ローマ教皇(ローマきょうこう=カトリック教会の最高位聖職者(せいしょくしゃ=宗教上の聖職に就いている人))を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教の教派)

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以上所説あり。