浅井長政(13/17)(1570年6月)

ここでは、1570年6月に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1570年( 元亀(げんき) 元年)織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代、各地に領国を形成した大名(だいみょう=ある地域を支配している者))。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)は、金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい=現在の福井県敦賀市(ふくいけん つるがし)で起こった信長と朝倉義景 (あさくら よしかげ、1533~1573=越後国の戦国大名。越前朝倉氏第11代の当主(その家の現在の主人)) との戦い、信長の撤退(てったい=その場から難を逃れること)戦)での長政の離反(りはん=裏切ること)を許せませんでした。そして信長は、竹中半兵衛(たけなか はんべえ、1544~1579=竹中重治(たけなか しげはる))に調略(ちょうりゃく=たくらみ)を命じ、浅井氏の家臣(かしん=けらい)・堀秀村(ほり ひでむら、1557~1599=大名)と樋口直房(ひぐち なおふさ、~1574)を取り込むことに成功し、近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))への通路が確保できました。そこで、南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)を守っている柴田勝家(しばた かついえ、1522~1583=戦国大名)、佐久間信盛(さくま のぶもり、1528~1582)や六角(ろっかく)の旧家臣であった豪族(ごうぞく=大きな富や勢力を持つ一族)などを六角父子に当たらせました。6月4日、六角承禎(ろっかく じょうてい、1521~1598=近江国の守護大名(しゅごだいみょう=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)。南近江の戦国大名。六角氏15代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))・義治(よしはる、1545~1612=承禎の長男。南近江の戦国大名。六角氏16代当主)は乙窪(おちくぼ=現在の滋賀県野洲市乙窪(やすし おちくぼ))を決戦場として織田軍と戦い、完膚なき(かんぷなき=てっていてき)まで敗れました(乙窪の戦い)。6月18日、信長は尾張(おわり=現在の愛知県(あいちけん)西部)、美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)、伊勢(いせ=三重県(みえけん)北中部、愛知県弥富市(あいちけん やとみし)一部、愛知県愛西市(あいさいし)の一部、岐阜県海津市(ぎふけん かいづし)一部)合わせて二万五千という大軍に徳川家康(とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家九代当主。のちの天下人、江戸幕府(えどばくふ)初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))五千を率いて、樋口の長比城(たけくらじょう=滋賀県米原市長久寺(まいばらし ちょうきゅうじ)にあった城)に陣を張りました(じんをはりました=軍隊を配置して備えました)。信長は北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(ひこねし とりいもとちょう))に侵攻(しんこう=敵地に侵入してせめること)すると、たちまちに坂田郡(さかたぐん=現在の滋賀県にあった郡)の東南部を制圧(せいあつ=力ずくで相手を押さえつけること)し、このあと、柴田、佐久間などの諸将(しょしょう=おもだった武士の大将たち)が合流して織田軍は三万に膨(ふく)れ上がりました。対する浅井軍は五千、豪族など駆(か)け付けて一万あまりでした。しかし、長政には難攻不落(なんこうふらく=攻撃するのがむずかしく、たやすくせめおとせないこと)の城である小谷城(おだにじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(ながはまし こほくちょう いべ)にあった城)がありました。籠城(りゅうじょう=城にこもり敵と戦うこと)して長引けば長引くほど、反信長(はん のぶなが=信長を敵としているもの)勢力(せいりょく=いきおいとちから)、と将軍足利義昭(あしかが よしあき、=室町幕府第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号。将軍))が策謀(さくぼう=たくらみ)を巡らし(めぐらし=あれこれと心を働かせ)、信長、家康が最も恐れている武田信玄(たけだ しんげん、1521~1573=甲斐(かい=現在の山梨県)の守護大名(室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・戦国大名。甲斐武田家第19代当主)が立ち、場合によっては朝倉勢の援軍(えんぐん=たすけの軍隊)もあり、籠城戦が成功すると考えました。長政は、小谷城に主力三千を入れ、戦略(せんりゃく)上、重要地点である横山城(よこやまじょう=現在の滋賀県長浜市堀部町・石田町(ほりべちょう・いしだちょう))に三田村左衛門尉(みたむら さえもんのじょう)、大野木土佐守(おおぎの とさのかみ、~1573)、野村肥後守(のむら ひごのかみ=大名)という重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)に一千の諸兵(しょへい=騎兵や歩兵たち)で守らせました。一方、信長は19日になって、横山城に近づき、20日、信長の弟・織田信包(、1543~1614=信長の弟。大名。長野工藤家第17代当主。丹波柏原藩初代藩主)、丹波長秀(には ながひで、1535~1585)、水野信元(みずの のぶもと、~1576=大名)らに五千を与えて横山城を包いさせ、信長は主力の二万を率いて小谷城に向い、虎御前山(とらごぜやま=現在の滋賀県長浜市中野町(なかのちょう))に本陣(ほんじん=軍の大将がいる陣(じん=軍団))を構えました。23日、朝倉景健(あさくら かげたけ、~1575)一万が一乗谷(いちじょうだに=現在の福井県福井市城戸ノ内町(ふくいけん ふくいし きどのうちちょう))を発進し浅井の援護(えんご=困っている人を助け守ること)に出たことを受けました。信長は挟み撃ち(はさみうち)を恐れ、虎御前山を下り辰鼻(たつがはな=滋賀県米原市(まいばらし)・長浜市)に本陣を布い(しい=配置し)、家康軍もその日に到着しました。24日から織田軍は横山城に猛攻(もうこう=激しく攻めたてること)を加え始めました。26日、朝倉軍が小谷城到着し、28日、浅井七千、朝倉一万は小谷城を出て姉川(あねかわ=滋賀県北部を流れる川)北岸の野村(のむら=現在の滋賀県長浜市野村町(のむらちょう))・三田村(みたむら=現在の滋賀県長浜市三田町(みたちょう))に移動しました。それを見た信長三万は、姉川の南岸にある陣杭の柳(じんごのやなぎ=現在の滋賀県長浜市東上坂町(ひがしこうざかちょう))に陣を張り、家康はその近く岡山(おかやま=現在の滋賀県長浜市の勝山(かつやま))に陣を構えました。両軍は、この姉川を挟(はさ)んで対峙(じっとにらみ合って対立すること)することになりした。浅井軍の正面には織田軍、朝倉軍の正面には徳川軍が位置する形でした。尚、徳川軍には、支援軍として織田から丹羽長秀(にわ ながひで、1535~1585=大名)隊二千が参陣(さんじん=陣営(戦場で軍勢が集結して待機している所)に到着すること)しました。長政の陣立て(じんたて=軍隊を配置)は、第一陣に磯野員昌(いその かずまさ、1523~1590)千五百、第二陣に浅井政澄(あさい まさずみ、~1570)一千、第三陣に阿閉貞秀(あつじ さだひで、~1582=阿閉貞征(あつじ さだゆき))一千、第四陣に新庄直頼(しんじょう なおより、1538~1613=大名)そして本陣に長政二千五百で構えました。朝倉勢は一万を三隊に分けて陣を構えました。一方、織田軍は、本陣まで十三段の陣を敷いていました。第一陣・坂井政尚(さかい まさなお、~1570)三千、第二陣・池田恒興(いけだ つねおき、1536~1584=大名)、第三陣・木下秀吉(きのした ひでよし、1537~1598=大名。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人)、第四陣・柴田勝家(しばた かついえ、1522~1583=戦国大名)三千、第五陣・森可成(もり よしなり、1523~1570)三千、第六陣・佐久間信盛(さくま のぶもり、1528~1582)三千、そして本隊信長五千で構えていました。家康は一陣に酒井忠次(さかい ただつぐ、1527~1596=徳川四天王(とくがわしてんのう)の一人)に一千、二陣に小笠原長忠(おがさわら ながただ)一千、三陣に石川数正(いしかわ かずまさ、1533~1593=大名)一千、これに丹羽長秀二千、そして家康本隊二千で構成されていました。6月28日、満を持して、朝六時、朝倉軍が仕掛け、徳川軍と一進一退(いっしんいったい=進んだりあともどりしたりすること)の攻防(こうぼう=せめることとふせぐこと)が始まりました。浅井軍も攻撃を開始し、織田軍との合戦が始まりました。浅井軍の先鋒、磯野員昌の率いる千五百は強く、織田軍一陣二陣は為す術がなく、もろくも崩(くず)されてしまい、三陣、四陣も中央突破(とっぱ)され後退するしかありませんでした。一方、朝倉軍は数で徳川軍を圧倒していました。しかし、家康は本多忠勝(ほんだ ただかつ、1548~1610=徳川四天王の一人。大名。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主)と榊原康政(さかきばら やすまさ、1548~1606=徳川四天王の一人。大名。上野国舘林藩初代藩主。康政流榊原家初代当主)に一千の部隊を左から迂回(まわり道すること)され、横から攻撃され、形勢(けいせい=様子)が逆転し、黒坂備中守(くろさか びっちゅうのかみ)、真柄直隆(まがら なおたか、1536~1570)らが討ち取られ敗北してしまいました。一方、浅井軍は織田軍の十三陣(本陣)まである十一陣まで破り、長政から信長が右往左往する姿が見えあと一歩で討ち取ることができた。しかしそのとき、朝倉軍を破った徳川勢・本多忠勝ら五百が右から、さらに織田軍危うしと聞いて、横山城を包囲(ほうい=周囲をとりかこむこと)していた氏家ト伝(うじいえ ぼくぜん、1512~1571)、安藤範俊(あんどう のりとし 、~1582)、稲葉一鉄(いなば いってつ、1515~1589=稲葉良通(いなば よしみち))らの五千が右から不意打ち攻撃されてしまい形勢は逆転してしまいました。しかし、このチャンスに遠藤喜右衛門(えんどう きえもん、1531~1570)が二十騎ほど従えて、織田本陣に突入しました。最後は竹中久作(たけなか きゅうさく、1546~1582)に討たれ、絶命しました。午前十時、長政は全軍に撤退(てったい=軍隊が陣地などからしりぞくこと)を命じ、いち早く、磯野員昌を率いる部隊は、進撃(前進して敵を攻撃すること)のような威風堂々(いふどうどう=近づきがたいほど堂々として立派であること)とした態度で佐和山城(さわやまじょう=現在の岐阜県彦根市の佐和山)へ戻り、長政は小谷城に撤退しました。信長は反信長の動きを恐れ追撃(ついげき=逃げる敵を追いかけて攻撃すること)はしませんでした。この姉川の戦いで、浅井・朝倉合わせて千七百が死亡し、勝った織田・徳川合わせて八百余人が死亡し、負傷者(ふしょうしゃ=けがをした人)は浅井・朝倉に劣(おと)らぬほどの数でお世辞でも完勝とは言えませんでした。翌日、信長は、横山城を攻め、落城し、秀吉を入れて守らせました。

以上諸説あり。