浅井長政(15/17)(1571年)

ここでは、1571年に、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1571年(元亀(げんき)二年)正月、そのころ、浅井氏家臣(かしん=けらい)の磯野員昌(いその かずまさ、1523~1590=武将)の佐和山城(さわやまじょう=現在の滋賀県彦根市(しがけん ひこねし)の佐和山にあった城)が、織田(おだ)の丹羽長秀(にわ ながひで、1535~1585=武将、大名)の軍に長期間包囲(ほうい=周りを取り囲むこと)されていました。長政は磯野から支援はありましたが、磯野の裏切りを疑い、援軍(えんぐん=たすけの軍隊)を送りませんでした。2月中旬、磯野に丹羽から所領安堵(しょりょうあんど=領土はうばわない)の話があり、長政からの支援もないことで、開城(かいじょう=降伏して敵に城を明け渡すこと)しました。長政は人質の磯野の母を磔(はりつけ=死刑の一つ。板や柱にからだをしばりつけ刺し殺すこと)にして、丁野山(ようのやま=現在の滋賀県東浅井郡湖北町丁野(ながはまし ひがしあざいぐん こほくちょう ようの))に晒(さらし=広く人々の目に触れるように)しました。磯野が長政に戦いを挑むことは明らかで、織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと))との和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)はこれで完全に破棄(はき=約束を一方的に破ること)されました。長政は一揆(いっき=地侍(じざむらい=侍身分の一種)・農民・信徒(ある宗教の信者)らが団結して起こした暴動)を含め八千の軍を率いて姉川(あねかわ=現在の滋賀県北部を流れる川)に出撃(しゅつげき=敵を攻撃(こうげき)するために陣地(じんち)を出ること)しました。横山城(よこやまじょう=現在の滋賀県長浜市堀部町(ながはまし ほりべちょう)・石田町(いしだちょう)にあった城)を守る織田の藤吉郎(とうきちろう、1537~1598=大名。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、天下人)は籠城(ろうじょう=城にこもり敵と戦うこと)し、援軍を待ちました。浅井勢はあと一歩で奪還(だっかん=うばいかえすこと)できると意気込んでいました。しかし、夏になって信長は湖北(こほく=北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(ひこねし とりいもとちょう)))に侵攻(しんこう=敵地に侵入(しんにゅう)してせめること)し、手当たり次第に神社仏閣(じんじゃぶっかく)を焼き払い、村々を焼き払い、一向宗(いっこうしゅう=浄土真宗)の門徒(もんと=信者)を捕らえては首をは刎(は)ねました。長政は必死に反撃(はんげき)しました。石山本願寺(いしやまほんがんじ=現在の現在の大阪城本丸(おおさかほんまる)にあった寺社)の門徒宗や比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市(しがけん おおつし)西部と京都府京都市(きょうとふ きょうとし)北東部にまたがる山)の僧兵(そうへい=武装(ぶそう)した下級僧侶(そうりょ=お坊さん)をいう)と手を結び、夜襲(やしゅう=夜、敵を襲(おそ)うこと)をかけ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ=阿弥陀仏(あみだぶつ=仏教(ぶっきょう=宗教の一つ)の開祖(かいそ=宗教を新たに開始した人。))の救済を願って唱える語)」を唱え立ち向かい、殺されていきました。9月に入って織田軍に湖北の船が大量に没収(ぼっしゅう=無理に取り上げること)され、この船に兵を満載(まんさい=人をいっぱいにのせること)し、比叡山に奇襲(きしゅう=不意打ち)をかけてきました。9月11日、信長が三万の軍勢(ぐんぜい=軍隊)で比叡山を包囲し、翌朝、全軍で総攻撃してきました。根本中堂(こんぽんちゅうどう=比叡山の東塔にある建物)、山王二十一社(さんのうにじゅういっしゃ=比叡山の山すそに鎮座(ちんざ=神が一定の場所にしずまっていること)する日吉大社(ひよしたいしゃ)の上七社・中七社・下七社の総称)など神仏の建物、家、そのほかの建物、あまさず焼き払われ、男女子供かまわず捕まえては首を刎ねを繰り返され、比叡山は三日三晩、燃え続きました(比叡山焼き討ち)。

以上諸説あり。