今川義元(5/8)(1542年~1546年)

ここでは、1542年~1546年までに、今川義元(いまがわ よしもと)が、たずさわったことを勉強します。

1542年(天文(てんぶん)十一年)8月10日、尾張国(おわりのくに=現在の愛知県(あいちけん)西部)の小大名・織田信秀(おだ のぶひで、1511-1552=織田信長(おだ のぶなが、1534-1582)の父)と三河国小豆坂(みかわのくに あずきざか=現在の愛知県岡崎市(おかざきし))で戦いました(第一次小豆坂の合戦(だいいちじ あずきざか の かっせん)=今川・松平(まつだいら)連合軍と織田軍との戦い)。

1545年(天文十四年)7月24日、義元は、河東(かとう=富士川以東(ふじかわいとう=現在の静岡県(しずおかけん)東部))を占領(せんりょう)する北条氏(ほうじょう し)を討つため(うつため=攻撃するため)、駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区(しずおかけん しずおかし あおいく))を出陣(しゅつじん=戦場へむかうこと)し、富士川(ふじかわ=現在の長野県(ながのけん)・山梨県(やまなしけん)及び静岡県を流れる川)を越えて善得寺(ぜんとくじ=現在の静岡県富士市にあった寺社)に着陣(ちゃくじん=陣地(じんち)に到着(とうちゃく)すること)しました。8月11日、義元は、善得寺で武田晴信(たけだ はるのぶ、1521-1573=のちの武田信玄)と会見(かいけん=)し、誓詞(せいし=)を交わしました。8月16日、義元は、駿河国今井(するがのくに いまい=現在の静岡県富士市今井)で、北条氏綱(ほうじょう うじつな、1487-1541)の長男で後継者(こうけいしゃ=あとつぎ)の氏康(うじやす、1515-1571)と戦いました(今井狐橋の合戦(いまい きつねばし の かっせん)=現在の静岡県富士市今井で、今川義元軍が北条氏康軍を破った戦い)。10月24日、義元は、武田晴信の仲介(ちゅうかい=間に入ること)により、関東管領(かんとう かんれい=室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名)・上杉憲政(うえすぎ のりまさ、1523-1579)、北条氏康と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)しました。10月27日ごろ、義元は、北条方(がた)の撤退(てったい=軍隊などが陣地(じんち)などを取り払って引き上げること)で河東を取り戻しました。この年、義元は、「如律令(にょりつりょう)」印を使い始めました。

1546年(天正十五年)11月、今川勢は、三河国今橋城(みかわのくに いまはしじょう=現在の愛知県豊橋市今橋町(とよはしし いまはしちょう)にあった城)の戸田宣成(とだ のぶなり、-1546)を破りました。

以上諸説あり。