今川義元(8/8)(1557年~1560年)

ここでは、1557年から、今川義元(いまがわ よしもと)が亡くなる、1560年までにたずさわったことを勉強します。

1557年(弘治(こうじ)三年)正月、義元は、嫡子(ちぇくし=正妻(正式の妻)の生んだ子)・氏真(うじざね、1538-1615)に家督(かとく=あととり)を譲(ゆ)りました。

1558年(弘治四年)2月、松平元康(まつだいら もとやす、=のちの徳川家康(とくがわ いえやす))が、義元の命(めい=言いつけ)で本領(ほんりょう=代々(だいだい)伝えられてきた領地)の三河国岡崎城(みかわのくに おかざきじょう=現在の愛知県岡崎市(あいちけん おかざきし)にあった城)に戻り、寺部城(てらべじょう=現在の愛知県豊田市寺部町(とよたし てらべちょう)にあった城)攻めに参加しました。

1560年(永禄(えいろく)三年)5月8日、義元は、朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行う所)から三河守(みかわのかみ=地方官の長)に任じられました(にんじられました=つかせられました)。同月12日、義元は、駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区(しずおかけん しずおかし あいおく))に出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。そして18日、義元は、尾張国沓掛城(おわりのくに くつかげじょう=現在の愛知県豊明市沓掛町(とよあけし くつかけじょう)にあった城)に着陣(ちゃくじん=陣地(じんち)に到着すること)しました。松平元康は今川勢(ぜい)に属(ぞく)し、尾張国大高城(おわりのくに おおだかじょう=現在の愛知県名古屋市大高町(なごやし おおだかちょう)にあった城)に合戦(かっせん=戦い)の末、兵糧(ひょうろう=軍隊の食糧(しょくりょう))を運び入れました。翌日、義元は、尾張国桶狭間(おわりのくに おけはざま=現在の愛知県名古屋市緑区(みどりく)と愛知県豊明市にまたがる地域)で織田信長(おだ のぶなが、)勢の攻撃を受け、討死(うちじに= 戦場で敵と戦って死ぬこと)しました(桶狭間の戦い)。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)42歳でした。6月5日、臨済寺(りんざいじ=現在の静岡県静岡市葵区大岩町(おおいわちょう)にある寺社)で義元の葬儀(そうぎ=葬式(そうしき))が営まれました(いとなまれました=おこなわれました)。こののち、臨済寺の隣に、菩提寺(ぼだいじ=先祖代々のお墓のあるお寺)として天澤寺(てんたくじ)が創建(そうけん=初めて建てること)されました(のち臨済寺へ移送されました)。

以上諸説あり。