毛利元就(6/6)(1562年~1571年)

ここでは、1562年~1571年までに、毛利元就(もうり もとなり)が、たずさわったことを勉強します。

1562年(永禄(えいろく)五年)7月、元就は、出雲国(いずものくに=現在の島根県(しまねけん)東部)に大挙出陣(たいきょしゅつじん=多数がそろって戦争に立ち向かうこと)しました。石見銀山(いわみぎんざん=現在の島根県太田市(しまねけん おおだ)にある銀山)を尼子氏(あまごし)から再び奪取(だっしゅ=うばい取ること)しました。石見国(いわみのくに=現在の鳥取県(とっとりけん)西部)を平定(へいてい=世の中が平和になること)し、尼子義久(あまご よしひさ)の月山富田城(がっさんとだじょう=現在の島根県安来市広瀬町富田(しまねけん やすぎし ひろせちょう とだ)にあった城)を包囲(ほうい=周囲をとりかこむこと)しました。隆元(たかもと=元就の長男)、朝鮮(ちょうせん=現在の大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮))に使節(しせつ=国家の代表として外国に派遣(はけん=命令して差し向けること)される人)を派遣しました。

1563年(永禄六年)3月、将軍・足利義輝(あしかが よしてる)の命により、大友宗麟(おおとも そうりん)と和平(わへい=仲直りして平和になること)を結びました。この年、隆元が亡(な)くなりました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)42歳でした。元就は、隆元の子・輝元(てるもと)の後見(こうけん=うしろだてとなって面倒をみること。特に、幼少の者の代理となって補佐すること)となりました。

1565年(永禄八年)月山富田城を総攻撃(そうこうげき)し、包囲持久戦(じきゅうせん=時間をかけて敵の消耗や援軍の到着などを待って戦う方法)をとりました。将軍・義輝が松永久秀(まつなが ひさひで)らに殺されてしまいました。

1566年(永禄九年)11月、月山富田城の尼子義久が降伏(こうふく)しました。出雲国・伯耆国(ほうきのくに=現在の鳥取県(とっとりけん)中部および西部)を平定(へいてい=)し、中国地方八か国、百万石を支配下に置きました。

1567年(永禄十年)曲直瀬道三(まなせ どうさん)が、元就に意見書(いけんしょ=ある問題についての考えを述べた文書)を提出(ていしゅつ)しました。

1568年(永禄十一年)5月、元就は、伊予国(現在の愛媛県(えひめけん))に出兵(しゅっぺい=多数の軍隊がそろって立ち向かうこと)しました。6月、北九州(きたきゅうしゅう)に大挙出兵(たいきょしゅっぺい=)し、筑前国(ちくぜんのくに=現在の福岡県(ふくおかけん)西部)で大友氏と戦いました。9月、織田信長(おだ のぶなが)、足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて(ほうじて=)入京(にゅうきょう=地方からみやこへはいること)しました。

1569年(永禄十二年)和智誠春(わち まさはる)を誅殺(ちゅうさつ=罪ある者を、その罪を理由として殺すこと)しました。織田信長の援助(えんじょ)により、尼子勝久(あまご かつひさ)を擁立(ようりつ=もりたててある地位につかせること)した山中幸盛(やまなか ゆきもり=通称・鹿之介(しかのすけ))らが、毛利氏の諸城(しょじょう)を攻略(こうりゃく)しました。元春(もとはる=元就の次男)、大友宗麟の後援(こうえん=後方にひかえている援軍)で周防国(すおうのくに=現在の山口県(やまぐちけん)東部)に上陸(じょうりく)した大内輝弘(おおうち てるひろ)を破り、山口の動乱(どうらん=世の中が騒がしく乱れること)を鎮圧(ちんあつ=戦乱や暴動を武力を使ってしずめること)しました。

1570年(元亀(げんき)元年)輝元が出雲国に出陣(しゅつじん)しました。元就・輝元、起請文(きしょうもん=誓いを文書に書いたもの)を村上氏(むらかみし)と交換(こうかん)し盟約(めいやく=かたくちかって約束すること)しました。

1571年(元亀二年)6月14日、元就は、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市吉田町吉田(ひろしまけん あきたかたし よしだちょう よしだ)にあった城)で亡くなりました。享年75歳でした。

以上諸説あり。