真田幸村(6/6)(1615年~1658年)

ここでは、1615年~1658年までに、真田幸村(さなだ ゆきむら)が、たずさわったことを勉強します。

1615年(慶長(けいちょう)二十年)正月中旬、徳川家康(とくがわ いえやす)、豊臣(とよとみ)方の抗議(こうぎ=相手の行動や処置の仕方などに、反対の意見や苦情を述べること)を無視(むし)し、大坂城(おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城にある城)・内堀(うちぼり)の埋立て(うめたて)を断行(だんこう=どんなことがあっても行うこと)し、大坂城の軍事的な価値(ぐんじてきなかち)を奪(うば)いました。2月、家康、駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区(しずおかけん しずおかし あおいく))へ帰城(きじょう=城に帰ること)しました。3月15日、和平交渉(わへいこうしょう=平和になるために相手と話し合うこと)が決裂(けつれつ=意見が一致せず、会談・交渉などが成立しないこと)しました。4月13日、幸村、秀頼(ひでより)に出馬(しゅつば=馬に乗って戦場に出向くこと)を軍議(ぐんぎ=軍事に関する意見を出し合って相談すること)で要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)するも、退(しりぞ)けられました。同月15日、家康、名古屋城(なごや じょう=現在の愛知県名古屋市中区・北区(あいちけん なごやし なかく・きたく)にあった城)を出立(しゅったつ=旅に出ること)し、18日に二条城(にじょう じょう=現在の京都府京都市中京区二条城(なかきょうくに じょうじょう))に入りました。同月25日、「大坂夏の陣(おおさかなつのじん=徳川家康が豊臣氏をほろぼした戦い)」が勃発(ぼっぱつ=事件などが突然に起こること)しました。5月1日、幸村、天王寺(てんのうじ=現在の大阪府大阪市天王寺区(おおさかふ おおさかし てんのうじく))に布陣(ふじん=軍隊の集結した所)しました。同月6日、早朝の濃霧(のうむ=こくたちこめたきり)のため、幸村は後藤又兵衛(ごとう またべえ)の守る道明寺(どうみょう じ=大阪府藤井寺市にある寺院)への到着(とうちゃく)が遅(おく)れました。後藤又兵衛隊二千八百は、水野勝成(みずの かつなり)の三千八百と伊達政宗(だて まさむね)一万の大軍(たいぐん)によって撃破(げきは=攻撃(こうげき)して敵をうちやぶること)されました。次々と崩(くず)れる豊臣軍の中で、唯一(ゆいいつ=ただ一つであること)、幸村の率(ひき)いる三千の軍勢(ぐんぜい=軍の勢力としての人数)が、この大軍を撃破しました。同月7日、幸村は再度、秀頼の出馬を要請するも大坂城内より拒まれました(こばまれました=相手の要求を拒否(きょひ)すること)。秀頼の出馬をあきらめ、一万の兵を率いて茶臼山(ちゃうすやま=現在の愛知県北設楽郡豊根村(あいちけん きたしたらぐん とよねむら)と長野県下伊那郡根羽村(ながのけん しもいなぐん ねばむら)にまたがる山)から家康の本陣(ほんじん=陣営で、総大将がいる場所)を三度急襲(きゅうしゅう=敵のすきをついておそうこと)するも、家康を討(う)つことはできず、真田幸村は、松平忠直(まつだいら ただなお)の家臣(かしん=けらい)・西尾久作(にしお きゅうさく=のち、仁左衛門(じんざえもん))の手にかかって、討ち死に(うちじに=戦死)しました。享年49歳でした。同日、豊臣秀頼とその母・淀殿(よどどの)は大坂城内で自刃(じじん=刃物(はもの)を使って自らの生命を絶つこと)し、大坂城が落城(らくじょう=敵に城を攻めとられること)しました。同月8日、大助(だいすけ=幸村の長男)、秀頼に殉じて(じゅんじて=主君の死んだあと、その後を追って死ぬこと)自刃しました。

1658年(万治(まんじ)元年)10月17日、幸村の兄・信之(のぶゆき)は、この年に亡(な)くなりました。享年93歳でした。

以上諸説あり。