佐々成政(15/17)(1587年7月~9月)

ここでは、1587年7月~9月に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1587年(天正十五年)7月、隈府城(わいふ じょう=現在の熊本県菊池市隈府(くまもとけん きくちし わいふ)にあった城)主・隈部親永(くまべ ちかなが)が、検地反対一揆(いっき=幕府などに反抗し、地侍・農民・信徒らが起こした暴動)を起こしました。ついで、子の山鹿城(やまが じょう=現在の熊本県山鹿市にあった城)主・隈部親安(くまべ ちかやす)も、抵抗しました。同月、成政、兵数1000を率いて、隈府城を攻めました。敗れた隈部親永は、子の親安の城村城(じょうむら じょう=熊本県にあった城)に逃げ込みました。隈部父子、城村城にたてこもり、成政に抵抗しました。8月、成政留守中、一揆があり、隈府城が攻められました。同月、成政の養子・右馬頭(うまのかみ=右馬寮(うまりよう)の長官。従五位上相当。みぎのうまのかみ)・成光(なりみつ)が戦死しました。隈部親永・親安父子の検地反対一揆が契機(けいき=きっかけ)となり、肥後(現在の熊本県)の国人(こくじん=その地方の住民)たちが一揆を起こしました。この国人一揆は隣国(りんごく=となりの国)へも及(およ)ぼそうとする勢いでした。成政の養子・宗能(むねよし)は戦死しました。成政、山鹿城攻めのため山鹿城の東西に二つの付城を築き隈府城に帰城しました。9月、秀吉(ひでよし)、成政応援を立花宗茂(たちばな むねしげ)に命じました。同月、秀吉、一揆鎮圧(ちんあつ=力をもっておさえつけしずめること)のため、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)・黒田孝高(くろだ よしたか)・島津義弘(しまづ よしひろ)・立花宗茂・鍋島直茂(なべしま なおしげ)・毛利勝信(もうり かつのぶ)・龍造寺家晴(りゅうぞうじ いえはる=政家の名代)・浅野長政(あさの ながまさ)・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)らを制圧(せいあつ=威力(強い力)で相手を押さえつけること)にさしむけました。

以上諸説あり。