直江兼続(3/28)(1562年~1565年)

ここでは、直江兼続(なおえ かねつぐ)の弟・樋口与七(ひぐちよひち=のちの大国実頼(おおくに さねより))が誕生してから(1562年)、足利義昭(あしかが よしあき)が、居多神社神官花ケ前宮内大輔盛貞(こたじんじゃ しんかん はながさき くないたいふ もりさだ)に、その子息(しそく=男の子供)智光院頼慶(ちこういん らいけい)の使者(ししゃ)としての辛労(しんろう)を謝する年(1565年)までを勉強します。

1562年(永禄(えいろく)五年)この年、兼続(かねつぐ)の弟・樋口与七(ひぐちよひち=のちの大国実頼(おおくに さねより))が誕生しました。11月9日、坂戸城(さかど じょう=現在の新潟県南魚沼市にあった城)主長尾政景(ながお まさかげ)が河田長親(かわだ ながちか)に送った起請文(きしょうもん=神仏への誓いを記した文書)に「居多大名神(こた だいみょうじん)」と書いてありました。

1563年(永禄六年)3月26日、関白(かんぱく=成人の天皇を補佐する官職)近衛前嗣(このえ さきつぐ)、上杉謙信(うえすぎ けんしん)及び直江景綱(なおえ かげつな)・河田長親(かわだ ながちか)に、先年(永禄三年)、越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)滞在(たいざい)のさいの懇待(こんたい=てあつくもてなすこと)について礼を言いました。

1564年(永禄七年)7月5日、坂戸城主長尾政景、上田庄野尻池(うえだのしょう のじりいけ=現在の新潟県南魚沼郡湯沢町(にいがたけん みなみうおぬまぐん ゆざわちょう))で琵琶島城(びわじま じょう=現在の新潟県柏崎市にあった城)主宇佐美定満(うさみ さだみつ)と舟遊中(せんゆうちゅう=ふなあそびちゅう)、溺死(できし=水死)しました。6月24日、謙信、武田信玄(たけだ しんげん)撃滅(げきめつ=うちほろぼすこと)の祈願文(きがんぶん=願い事を書いた文書)を弥彦神社(やひこじんじゃ=現在の新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦(にいがたけん にしかんばらぐん やひこむら やひこ)にある神社)と春日山城(かすがやま じょう=現在の新潟県上越市(にいがたけん じょうえつし)にあった山城)内の看経所(かんきんしょ=お経をみるところ)に納めました。

1565年(永禄八年)8月5日、一乗院覚慶(いちじょういん かくけい=のちの15代将軍足利義昭(あしかが よしあき))、居多神社(こたじんじゃ=現在の新潟県上越市五智(ごち)にある神社)神官(しんかん=国の役人だったかんぬし)花ケ前(はながさき)宮内大輔(くないたいふ=正五位下にあたる役職)盛貞(もりさだ)に、その子息(しそく=男の子供)智光院頼慶(ちこういん らいけい=のちの居多神社神官花ケ前家盛(いえもり))の使者(ししゃ=命令や依頼を受けて使いに行く者)としての辛労(しんろう=つらい苦労をすること)について礼を言いました。

以上諸説あり。