島津義弘(6/7)(1588年~1597年)

ここでは、四男・万千代丸(まんちよまる)が和泉国(いづみのくに=現在の大阪府南部)の堺(さかい)で早世(そうせい=若くて死ぬこと)する年(1588年)から、義弘が薩摩国川内久見崎(さつまのくにせんだいぐみざき=鹿児島県薩摩川内市の大字)より朝鮮に渡った年(1597年)までを勉強します。

1588年(天正(てんしょう)十六年)2月、四男・万千代丸(まんちよまる)が和泉国(いづみのくに=現在の大阪府南部)の堺(さかい)で早世(そうせい=若くて死ぬこと)しました。6月、義弘は、従五位下(じゅごいのげ=位階の一。正六位上の上、従五位上の下。)・侍従(じじゅう=君主のおそばに仕えること)に叙任(じょにん=位階を授かり、官職を与えられること)されました。7月、義弘、秀吉(ひでよし)より羽柴姓(はしば せい)を賜り(たまわり)、従四位下(じゅしいのげ=位階の一。正五位上の上、従四位上の下。)に叙任されました。

1589年(天正十七年)義弘、居城(きょじょう=ふだん住んでいる城)を大隅国(おおすみのくに=現在の鹿児島県東部・奄美群島)の栗野城(くりの じょう=現在の鹿児島県姶良郡湧水町木場)へ移しました。

1592年(天正二十年)2月、義弘、太閤(たいこう=豊臣秀吉のこと)秀吉(ひでよし)の命により朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮半島)に出兵(しゅっぺい=軍隊を派遣すること)しました。7月、弟・歳久(としひさ)、太閤秀吉の命により薩摩国竜ヶ水(さつまのくに りゅうがみず=現在の鹿児島県鹿児島市吉野町)で自害(じがい=自殺すること)しました。

1593年(文禄(ぶんろく)二年)9月、義弘の次男・久保(ひさやす)は、朝鮮巨済島(ちょうせん こじぇど=現在の韓国の慶尚南道巨済市)で没しました(ぼっしました=亡くなりました)。

1594年(文禄三年)10月、義弘の三男・忠恒(ただつね)が、朝鮮に渡りました。

1595年(文禄四年)6月、義弘、島津本宗家十七代当主(しまづ ほんそうけ じゅうななだい とうしゅ)を継ぎました。7月、義弘の五男・忠清(ただきよ)が早世しました。12月、義弘、居城(きょじょう)を大隅国の帖佐(ちょうさ=現在の鹿児島県姶良市東餅田)に移しました。

1597年(慶長(けいちょう)二年)3月、義弘、薩摩国川内久見崎(さつまのくにせんだいぐみざき=鹿児島県薩摩川内市の大字)より朝鮮に渡りました。

以上諸説あり。