徳川家康(5/12)(1582年)

徳川家康(1582年)

ここでは、1582年、甲斐武田氏の滅亡の年を勉強します。

1582年(天正(てんしょう)十年)2月18日、織田(おだ)権力(けんりょく)の甲斐(かい=現在の山梨県)武田氏(たけだ し)攻めに従い(ぜめに、したがい)出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。甲斐武田氏は3月11日に滅亡し、同月29日、織田権力が旧武田領国の国割を行い、駿河国(するがのくに=現在の静岡県中部)を与えられました。織田信長(おだ のぶなが)への「御礼」のため、近江安土城(おうみ あずち じょう=現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にあった城)に赴き(おもむき)ました。6月2日、本能寺の変(ほんのうじ のへん)が起こりました。同月4日、「伊賀越え(いがごえ=畿内(きない=摂津、山城、大和、河内、和泉(せっつ、やましろ、やまと、かわち、いずみ=現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部、京都府南東部、奈良県、大阪府東部、大阪府南部)から東国(東の東山道(とうさんどう)・東海道(とうかいどう)諸国すべて)へ行く際に伊賀(いが=現在の三重県北東部)を経由して行くこと)」により帰国を果たしました。7月3日、甲斐国(かいのくに)へ侵攻(しんこう=他国の領地に攻め込むこと)しました。8~10月、甲斐国新府(かいのくに しんぷ=現在の山梨県韮崎市中田町)・若神子(わかみこじょう=山梨県北杜市須玉町若神子)間で相模(さがみ=現在の川崎市と横浜市一部以外の神奈川県)北条氏(ほうじょうし)と対峙(たいじ=じっとにらみ合って対立すること)しました。9月、信濃国(しなののくに=現在の長野県)衆の真田昌幸(さなだ まさゆき)が従属(じゅうぞく=他の者の下につき従うこと)しました。10月29日、相模北条氏と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)しました。(天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん=甲斐・信濃・上野(かい・しなの・こうずけ)で繰り広げられた徳川家康と北条氏直(ほうじょう うじなお)との戦い)が終結(しゅうけつ=決着)しました)。この時の国分交渉により、甲斐・信濃(かい・しなの)両国の領有を獲得(かくとく=手に入れること)しました。また北関東大名・国衆に対して、織田信長の生前時(せいぜんじ=亡くなる前)と同様の「惣無事(そうぶじ=羽柴秀吉(はしば よしひで)が大名間(だいみょう かん)の私闘(しとう=個人的なうらみのために争うこと)を禁じた法令)」を求めました。

1583年(天正十一年)8月15日、相模(さがみ=現在の川崎市と横浜市一部以外の神奈川県)北条氏(ほうじょうし)との同盟(遠相同盟=)を固めるため、娘の督姫(とくひめ)が北条氏直(ほうじょう うじなお)に嫁ぎました。11月15日、羽柴秀吉(はしば ひでよし)の督促(とくそく=さいそく)に従い、相模北条氏に「関東惣無事(かんとうそうぶじ=関東の大名・国衆の紛争解決や統制)」の指示を伝えました。

1584年(天正十二年)3月6日、織田信雄(おだ のぶお)が親秀吉派()の家臣たちを殺害しました。その後、家康は信雄に従い、羽柴秀吉と戦いました(小牧・長久手合戦(こまき・ながくてがっせん))。4月9日、長久手合戦が起こりました。11月12日、羽柴秀吉と徳川信雄が講和(こうわ=)。直後に家康も秀吉と講和し帰国しました(小牧・長久手合戦の終結)。

1585年(天正十三年)6月、信濃国衆の真田昌幸(さなだ まさゆき)が離叛しました。閏年8月、第一次上田合戦が起こりました。10月、信濃国衆の小笠原貞慶が離叛しました。11月13日、石川康輝(数正)が出奔()しました。

以上所説あり。