石田三成(3/3)(1597年~1600年)

ここでは、領内に麦年貢の淀(おきて)を出す年(1597年)から三成が処刑される年まで(1600年)を勉強します。

1597年(慶長(けいちょう)二年)四月、領内に麦年貢の淀(おきて)を出しました。五月、梵舜(ぼんしゅん=吉田兼右(よしだ かねぎみ)の子)にお願いして『源平盛衰記(げんぺいせいすき)』を書写せしむ(書き写しました)。

1598年(慶長三年)二月、蒲生秀行(がもう ひでゆき)の旧領検収のため会津に赴(おもむ)きました。四月、越後藤井堰(えちご ふじい せき=現在の新潟県柏崎市の鯖石川下流域に設置された堰)の掟(おきて)をきめました。
六月、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の旧領を代官に任命され、博多に赴(おもむ)きました。
七月、五奉行(三成と前田玄以(まえだ げんい)・浅野長政(あさの ながまさ)・増田長盛(ますだ ながもり)・長束正家(なつか まさいえ))が、秀頼(ひでより)に忠誠を誓う誓書を徳川家康(とくがわ いえやす)と前田利家(まえだ としいえ)に提出しました。
八月、秀吉が病死しました。九月、渡海部隊(とかいぶたい)の撤収(てっしゅう)に当るため再び博多(はかた=福岡市の区名)に行きました。十二月、渡海部隊の撤収を完了し、伏見(ふしみ=現在の京都市伏見区内)に引きあぐ(戻りました)。

1599年(慶長四年)一月、秀頼に従い大阪に移りました。同月、徳川家康の誓約違背を詰問す(秀頼との誓約にそむいたことを厳しく問いつめました)。二月、剃髪(ていはつ=髪を剃(そ)ること)して秀吉の喪(も)に服(ふく)しました。
閏三月、三成は七将(加藤清正(かとう きよまさ)・福島正則(ふくしま まさのり)・池田輝政(いけだ てるまさ)・細川忠興(ほそかわ ただおき)・浅野幸長(あさの ゆきなが)・加藤義明(かとう よしあきら)・黒田長政(くろだ ながまさ))に襲撃されました。
同月、三成佐和山に引退す(家康の説得に応じ奉行職を引退し佐和山の居城に居することになりまいした)。妙心寺(みょうしんじ=現在の京都市右京区花園)境内に父正継(まさつぐ)のために寿聖院(じゅせいいん=現在の京都府京都市右京区)を建立し、
また母の菩提(ぼだい=煩悩を断を切って悟りの)のために近江(おうみ=現在の滋賀県)に瑞岳寺(ずいがくじ)を建立しました。

1600年(慶長五年)七月、三成、佐和山城(さわやま じょう=現在の滋賀県彦根市)に大谷吉継(おおたに よしつぐ)を迎(むか)え、家康討伐(とうばつ=兵を出して反抗する者や従わない者を攻めうつこと)の計画に協力を求めました。
同月、諸大名(しょだいみょう)に家康の罪状(ざいじょう=犯罪の内容)を送り、その参加を求めました。同月、国友村(くにともむら=現在の滋賀県長浜市国友町)に対し、鉄砲の新規吹きかえを禁じました。
同月、伏見城(ふしみ じょう=現在の京都府京都市伏見区)及び田辺城(たなべ じょう=現在の京都府舞鶴市)の攻撃を開始しました。
八月、大阪に赴(おもむ)き、作戦会議を開きました。同月、美濃(みの=現在の岐阜の南部)に出撃し、大垣城(おおがき じょう=現在の岐阜県大垣市郭町)に入りました。
同月、織田秀信(おだ ひでのぶ)の岐阜城(ぎふ じょう=現在の岐阜県岐阜市)が攻め落とされました。
九月十五日、三成、大垣城(おおがきじょう=現在の岐阜県大垣市郭町)を出て、関ケ原に戦いで敗走しました。
同月十八日、佐和山城(さわやま じょう=滋賀県彦根市)が攻め落とされ、父正継(まさつぐ)・兄正澄(まさずみ)等三成の一族は自尽(じじん=自殺)しました。
同月二十一日、三成、近江古橋村(おうみ ふるはし むら=現在の岐阜県瑞穂市)にて捕えられ、十月一日、三成は家康により処刑されました。

以上諸説あり。