武田信玄(5/9)(1554年~1557年)

ここでは、甲相駿三国同盟(1554年)から第三次川中島の戦い(1557年)までを勉強します。

1554年(天文(てんぶん)二十三年)三月、北条氏、駿河(するが)に攻入りました。晴信、今川氏を赴援(ふえん=援助におもむく)し刈屋川(かりやがわ)で戦いました。
今川の軍師・雪斎(せっさい)神師の調停のもと、富士郡善徳寺(ふじぐん ぜんとくじ=静岡県静岡市葵区大岩町にある寺院)で甲相駿三国同盟(武田氏、北条氏、今川氏)が成立しました。
五月、甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)追加二条を定む(にニ条追加されました)。八月、信州佐久郡へへ出陣、また木曽義康(きそ よしやす)らを攻め落としました。十二月、晴信、女を北条氏政(ほうじょう うじまさ)に嫁がせました。

1555年(弘治元年)八月、木曽義康(きそ よしやす)を木曽福島城(きそ ふくしまじょう=長野県木曽郡木曽町にあった城)に囲み攻め落としました。
十月、川中島で再び、長尾景虎(のちの上杉謙信)と戦いを行いました(川中島の戦い(第二次))。のち今川義元(いまがわ よしもと)の調停(ちょうてい=仲直りさせること)で両軍退陣しました。
閏十月、大日方山城守(おおひがた やましろのかみ)らに俵物(たわらもの=俵に入れてあるもの。米穀や海産物など)の関税(荷にかかる手数料)を免除(ゆるすこと)しました。

1556年(弘治二年)三月、信濃伊奈郡(しなの いなぐん=現在の長野県飯田市、伊那市、駒ヶ根市、上伊那郡、下伊那郡)を攻略しました。八月、長尾景虎(ながお かげとら=のちの上杉謙信)の将(軍を統率する長)大熊朝秀(おおくま ともひで)、
晴信に通じ叛(そむ)き、甲州(こうしゅう=甲斐。現在の山梨県)に奔(はし)りました。同月、真田幸隆(さなだ ゆきたか)に信濃埴科郡雨飾城(しなの はにしなぐん あまかざりじょう=長野県長野市松代町東条にあった城)を攻略させました。

1557年(弘治三年)一月、伊奈郡(いなぐん=現在の長野県飯田市、伊那市、駒ヶ根市、上伊那郡、下伊那郡)に夫役(労働で納める課役)を課しました。二月、晴信、信濃葛山城(しなの かつらやまじょう=現在の静岡県裾野市にある城)を攻略しました。
七月、平倉城(ひらくら じょう)を攻め落としました。八月、信濃水内郡(しなの みのちぐん)上田原(うえだはら)で戦いました(川中島の戦い(第三次))。
十一月、その女北条氏政室(晴信の娘(黄梅院(おうばいいん)))の安産を甲斐浅間社(富士御室浅間神社)に安産祈願をしました。

以上諸説あり。