ここでは、小牧・長久手(こまき・ながくて)合戦の参加(1584年)から、北条氏(ほうじょうし)との講和(こうわ=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復すること)交渉に臨(のぞ)む年(1590年)までを勉強します。
1584年(天正十二年)三月、小牧・長久手(こまき・ながくて)合戦に参加しました。
1585年(天正十三年)六月、四国遠征(しこく えんせい)に参加し、岩倉城(いわくら じょう)攻めなどに加わりました。七月、播磨国宍粟(はりまのくに しそう=現在の兵庫県宍粟市・姫路市・佐用郡佐用町)(三万八千石程度)を加増されました。八月二十二日、父職隆(くろだ もとたか)が逝去(せいきょ=亡くなる)しました。この頃、キリスト教に入信(にゅうしん=信者になる)しました。
1586年(天正十四年)七月二十五日、九州遠征のため京都を出発しました。この年、従五位下(じゅうごいげ=位階の一。従五位上の下、正六位上の上)・勘解由次官(かげゆじかん)に叙任(じょにん=位を授け官に官職を与えること)されました。
1587年(天正十五年)四月、日向(ひゅうが)根白坂(ねじろざか)で島津軍(しまず ぐん)を撃破(げきは)しました。七月三日、豊前六郡(ぶぜんろくぐん=現在の福岡県東部・大分県北部の8群のうちの6郡)を与えられ、馬ヶ岳城(うまがだけ じょう=現在の福岡県行橋市津積馬ヶ岳にあった城)に入りました。
1588年(天正十六年)正月ごろ、肥後(ひご=現在の熊本県)の一揆(幕府などに反抗し、地侍・農民・信徒らがおこした暴動)鎮定(ちんてい=乱を力でしずめ、世間を穏やかになること)に赴(おもむ)きました。この年、中津城(なかつ じょう=現在の現在の大分県中津市二ノ丁にあった城)に移りました。
1589年(天正十七年)三月、検地(土地の測量調査)のため肥後(ひご=現在の熊本県)に赴(おもむ)きました。この年、城井氏(きいし=宇都宮氏(うつのみやし)とも言いました)を滅亡(めつぼう)させました。この年、嫡男(ちゃくなん)長政(ながまさ)に家督(かとく=あととり)を譲(ゆず)りました。
1590年(天正十八年)三月、小田原遠征に参加しました。六月、北条氏(ほうじょうし)との講和(こうわ=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復すること)交渉に臨(のぞ)みました。九月、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)より尾張(おわり=現在の愛知県西部)において三千石を賜(たまわ)りました。
以上所説あり。