黒田官兵衛(2/4)(1577年~1583年)

ここでは、多岐にわたる戦いで成果をあげ、信長から褒賞されるところから(1577年)、から、賤ヶ岳合戦(しずがたけ がっせん)参加する(1583年)までを勉強します。

1577年(天正五年)五月、播磨国映賀(はりまのくに=現在の兵庫県南西部)において毛利方の軍勢を破り、信長から褒賞(ほうしょう=ほめること)されました。十一月、佐用・上月城(さよ・こうずき じょう=現在の兵庫県佐用郡佐用町にある城)を攻めて、戦功を上げ、信長から褒賞されました。

1578年(天正六年)二月、別所長治(べっしょ ながはる)の謀反(むほん=時の為政者(政治を行う者)に反逆すること)に機敏(きびん=時に応じてすばやく判断し、行動すること)に対応し、信長から褒賞(ほうしょう=ほめること)されました。十月、荒木村重(あらき むらしげ)を説得するために、有岡城(ありおかじょう=現在の兵庫県伊丹市にあった城)に向かうも幽閉(ゆうへい=ある場所に閉じこめて外に出さないこと)されました。

1579年(天正七年)十月、有岡城(ありおかじょう=現在の兵庫県伊丹市にあった城)の牢獄(ろうごく=罪人を入れておく所)から救出されました。この頃、黒田姓に戻りました。

1580年(天正八年)九月、播磨国揖東部(はりまのくに いっとうぐん=現在の兵庫県にあった群)において一万石を与えられました。この頃、国府山城(こうやまじょう=現在の兵庫県姫路市にあった城)に移りました。

1581年(天正九月)三月、秀吉より一万石を加増(かぞう=多くすること)されました。六月、鳥取城(とっとり じょう=現在の鳥取県鳥取市にある城)攻めに加わりました。四国阿波(しこく あわ=現在の徳島県)攻めに際して、秀吉の指示を受け的確に職務を遂行しました。

1582年(天正十年)三月、備中(びっちゅう=現在の岡山県西部)に出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。
四国、秀吉の高松城(たかまつ じょう=現在の香川県高松市玉藻町にあった城)攻めに参加しました。六月、山崎の戦いに参加しました。以降、毛利氏(もうり し)との領土画定交渉(りょうど かくてい こうしょう)に当たりました。

1583年(天正十一年)四月、賤ヶ岳合戦(しずがたけ がっせん)に参加しました。十月、播磨国揖東部(はりまのくに いっとうぐん=現在の兵庫県にあった群)において千石を加増されました。

以上所説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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