ここでは、伏見城が完成する年(1597年)を勉強します。
1597年(慶長二年)1月、諸大名(しょだいみょう=多くの大名)、朝鮮出兵(ちょうせん しゅっぺい)のための準備を進める。2月、渡海(とかい=船で海を渡ること)の部署が定められ、先鋒(せんぽう=一番先に立って進むもの)は、加藤清正(かとう きよまさ)、
小西行長(こにし ゆきなが)、総大将は宇喜多秀元(うきた ひでいえ)となりました。総勢(そうぜい)十四万の兵を渡海(とかい=船で海を渡ること)しました。秀吉、伏見城(ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)で茶会をしました。
3月、盗賊(とうぞく)などの横行(おうこう=自由気ままに歩きまわること)を取り締まるため、五人組(年貢納入や治安維持などで連帯責任を負う、五戸を基準とした組織)を組織させました。
醍醐寺三宝院(だいごじ さんぼういん=現在の京都市伏見区醍醐にある寺院)で花見を開きました。5月、伏見城(現在の京都市伏見区桃山)が完成し、秀吉・秀頼は移りました。
7月、日本軍、朝鮮水軍に打撃(だげき)を与(あた)え、8月には、全羅道(ぜんらどう=現在の韓国の行政区分、全羅北道・全羅南道・済州特別自治道・光州広域市に相当)に攻めこみ、
南原城(なんげんじょう=現在の韓国の行政区分、全羅道にある城)を攻略しました。ルソン(=フィリピン北部)団使が秀吉に接見(せっけん=身分の高い人が公式に会見すること)しました。
8月、毛利輝元(もうり てるもと)に半島の様子を探(さぐ)らせ、もし明軍(みんぐん)が朝鮮に到着すれば、秀吉自身が出陣するであろうと告げます。
前の将軍足利義昭(あしかが よしあき)、山城国(やましろのくに=現在の京都府南部)槇島(まきしま=現在の京都府宇治市槇島町)で亡くなりました。9月、朝鮮出兵中諸大名から耳や鼻のそいだのが多数秀吉の許(もと)に送られてきました。
秀頼、京都の新宅に入る。秀頼参内(さんだい=宮中(皇室の中)に参上すること)して、従四位下(じゅしいげ=位階の一。正五位上の上、従四位上の下)、左近衛権少将(さこんえのしょうしょう=)に任じられる。
11月、明の大軍、朝鮮の京城(けいじょう=現在の韓国のソウル特別市)に到着。12月、日本軍と明軍、蔚山城(うるさん じょう=現在の韓国の蔚山広域市にある城)で激戦となりました。
小早川秀秋に急ぎ帰国を命じます。
以上諸説あり。