豊臣秀吉(11/13)(1596年)

ここでは、向島(むかいじま=現在の京都府京都市伏見区向島)に伏見城を築城しはじめる年(1596年)を勉強します。

1596年(慶弔(けいちょう)元年)1月、秀吉、明使(みんし)と朝鮮王子(ちょうせん おうじ)の来朝(=来日)を要求し、小西行長(こにし ゆきなが)と明使沈惟敬(みんし しんいけい)が、
釜山(プサン=現在の大韓民国南東部に位置する広域市、釜山広域市。)を出発しました。石田三成(いしだ みつなり)ら、秀頼(ひでより)に忠誠を誓(ちか)いました。
毛利輝元(もうり てるもと)、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)、吉川広家(きっかわ ひろいえ)ら、および東国(とうごく=現在の近畿地方から見て東の地方)の諸大名(しょだいみょう=多くの大名)、秀吉の命により淀川の提(よどがわのてい)を築きました。
2月、秀吉、ようやく病が治りました。伏見城(ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)を新しく向島(むかいじま=現在の京都府京都市伏見区向島)に築城(ちくじょう)しました。
5月、秀頼(ひでより)、大坂より入京(京都に入る)し、諸大名(多くの大名)が迎えました。秀吉、秀頼(ひでより)をともなって参内(宮中に参上すること)しました。
6月、明使沈惟敬(みんし しんいけい)、大坂に入り、ついで伏見城(ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)で秀吉に接見(せっけん=身分の高い人が公式に会見すること)しました。閏7月13日畿内大地震(きだい(京都を中心とした地域) じしん)があり、
方広寺(ほうこうじ=京都府京都市東山区にあった寺)の大仏殿(だいぶつでん)が倒壊(とうかい)し、伏見城(ふしみ じょう=(ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)天守(てんしゅ)なども倒壊しました。
9月、明の正使楊方亨(せいし(=主任の使者)ようほうきょう)、朝鮮使黄慎(こうしん)らの一行、大坂に着きました。秀吉、楊方亨(ようほうきょう)、副使沈惟敬(ふくし(正使の補佐または代理)しんいけい)と大坂城で会見し、その後
相国寺(そうこくじ=京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町にある寺)寺僧( じそう)に明使の持参した誥勅(こうちょく=官に任ずる天皇の言葉)を読ませたところ、違約(契約や約束などにそむくこと)を知り、激怒して使者を追い返しました。
ふたたび朝鮮出兵(ちょうせん しゅっぺい)を決し、諸大名(多くの大名)に伝えました。イスパニア船サンフェリペ号が土佐(とさ)に漂着し、ポルトガル宣教師のインスパニアが日本を植民地化しようとの計画がありと聞いて
11月、秀吉、宣都師二十六人を長崎で処刑しました。12月、秀頼、わずか四歳で元服(男子が成人になったことを示す儀式)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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