ここでは、秀吉の子、鶴松が生まれる年(1589年)から徳川家康が江戸を居住にする年(1590年)までを勉強します。
1589年(天正(てんしょう)十七年)3月、皇居を修築しました。5月、淀君(よどぎみ=茶々)が、山城淀城(やましろ よどじょう=現在の京都府京都市伏見区淀本町にあった城)で秀吉の子鶴松(つるまつ)を生みます。
8月、鶴松、大坂城(現在の大阪府大阪市中央区大阪城にあった秀吉が築いた城)に入りました。
9月、諸大名の妻子に、京都に来ることを命じます。11月、真田(さなだ)氏の要請(ようせい)により、北条征伐(せいばつ)を決め、宣戦布告状(せんせんふこくじょう)を氏直(うじなお)に出します。
12月、徳川家康(とくがわ いえやす)と北条征伐(ほうじょう せいばつ)の作戦を練りました。
1590年(天正十八年)1月、家康の室(しつ=身分の高い妻)旭姫(あさひひめ)、京都聚楽第(じゅらくだい=現在の京都府京都市上京区須浜池町にあった秀吉の邸宅)で没す(ぼっす=亡くなる)。
京都奉行(ぶぎょう)の増田長盛(ました ながもり)が三条大橋(さんじょうおおはし=京都市にある三条通の橋)を架橋(かきょう=橋を架けました)。
3月、北条氏征伐(せいばつ=反乱を起こした勢力を鎮圧)のため、京都を進発(しんぱつ=出発)し、関東に向かいました。
4月、沼津(ぬまづ)から箱根湯本(はこねゆもと)に移陣(いじん)し、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)、山中城(やまなか じょう=現在の静岡県三島市山中新田にある城)を攻略しました。
秀吉軍、小田原城(おだわら じょう=現在の神奈川県小田原市にあった城)を包囲しました。
伊豆(いず=現在の静岡県伊豆半島、東京都伊豆諸島)・相模(さがみ=川崎市、横浜市以外の神奈川県)・武蔵(むさし=現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の郷村(ごうそん=むらさと)、寺社などに禁制(きんぜい=軍勢の乱暴狼藉(らんぼう ろうぜき)、
銭貨(せんか)の徴発(ちょうはつ=強制的に取り立てること)等を禁止)を下しました。
5月、配下の諸将、北条氏の諸城を攻め、次々と落城(らくじょう)しました。6月、武蔵鉢形城(むさし はちがた じょう=埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある城)と八王子城(はちおうじ じょう=現代の東京都八王子市元八王子町にあった城)を、激戦の末に落城しました。
7月、北条氏直(ほうじょう うじなお)、小田原城(はちおうじ じょう=現代の東京都八王子市元八王子町にあった城)を出て秀吉に降伏しました。氏直(うじなお)、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に追放し、北条氏は滅び、全国統一が完成しました。
8月、徳川家康は関東に入部(にゅうぶ=初めて関東に入る)し、江戸を居城とし、諸将を配置しました。秀吉は奥州(おうしゅう=東北地方)に向かいました。
会津の黒川城(くろかわ じょう=現在の福島県会津若松市追手町にあった城、若松城)に入り、ついで京都に帰りました。
9月、皇居(こうきょ=現在の京都御所)の造営(ぞうえい=建築)を巡見(じゅんけん=見回る)し、摂津有馬温泉(せっつ ありま おんせん=兵庫県神戸市北区有馬町にある日本三古湯の温泉)で湯治(とうじ=疾病の温泉療養)します。
11月、掘秀治(ほり ひではる)に加賀(かが=現在の石川県南部)および越前(えちぜん=現在の福井県北東部)で十六万石(じゅうろくまんごく)を与えました。
蒲生氏郷(がもう うじさと)、伊達政宗(だて まさむね)の異心(いしん=別の考え)を秀吉に伝えました。
以上諸説あり。