ここでは甲斐の武田氏を滅ぼして(1582年)から大坂城を築城する(1583年)までを勉強します。
1582年(天正(てんしょう)十年)3月、備中(びっちゅう=現在の岡山県西部)に出陣しました。信長は甲斐(かい=現在の山梨県)の武田氏を滅ぼしました。
5月、毛利(もうり)の将清水宗治(しみず むねはる)を備中高松城(たかまつ じょう=現在の岡山県岡山市北区高松にあった城)で攻めました。
6月、明智光秀(あけち みつひで)の謀反(むほん=反逆)により本能寺(ほんのうじ=京都府京都市中京区下本能寺前町にある城)で信長自刃(じじん)する(本能寺の変)。
秀吉は急いで、清水宗治(しみず むねはる)の切腹を条件に、毛利輝元(もうり てるもと)と和睦(わぼく=和解)し、京都に帰えりました。
山崎((現在の大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町))の合戦で明智光秀(あけち みつひで)を破り、清洲会議(信長後継・領地再分配を決定する会議)によって、
織田三法師(おだ さんぽうし=秀信(ひでのぶ=信長の嫡孫(ちゃくそん)の幼名)を信長の後継と定めました。
10月、秀吉、朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行う所)から従五位下(じゅごいげ=位階の一。正六位上の上、従五位上の下)に任せられ左近衛権少将(さこんえごんしょうしょう=位階の正五位下相当))となる。
11月、柴田勝家(しばた かついえ)や前田利家(まえだ としいえ)らと和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)する。
1583年(天正十一年)2月、北伊勢(いたいせ=現在の三重県北勢地域)に出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)しました。3月、柴田勝家(しばた かついえ)と対陣(たいじん=向かい合って陣を構えること)します。
4月、近江賤ケ岳(おうみ しずがたけ=現在の滋賀県長浜市)で柴田勝家(しばた かついえ)と佐久間盛政(さくま もりまさ)を破りました(賤ケ岳の戦い)。
ついで越前北荘城(えちぜん きたそう じょう=現在の福井県福井市中央にあった城))を攻めて、勝家(かついえ)とお市の方が自刃(じじん=刃物を使って自らの生命を絶つこと)しました。(北陸平定(ほくりく へいてい=鎮圧)
9月、現在の大阪府大阪市中央区大阪城に大坂城を築城し、10月、現在の京都府京都市中京区下古町付近に新第(二条城)を築きはじめます。
以上諸説あり。