ここでは、姉川の戦い(1570年)から、羽柴筑前守秀吉と名乗る(1574年)ところまでを勉強します。
1570年(元亀(げんき)元年)4月、信長、朝倉義景(あさくら よしかげ)の征伐(せいばつ=反乱をおこした勢力を鎮圧)が始まりました。秀吉は越前(えちぜん=福井県北東部)金ケ崎城(かなさき じょう=福井県敦賀市金ケ崎町にあった城)を守備しました。
6月、姉川(あねかわ=現在の滋賀県北部を流れる淀川水系の一級河川)を挟(はさ)んで、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が戦う。家康家臣・榊原康政(さかきばら やすまさ)が横側から攻撃(こうげき)したことにより、
朝倉軍が総崩れ(そうくずれ)となり、織田・徳川軍が勝利しました(姉川の戦い)。信長の命により、秀吉は横山城(よこやまじょう=現在の滋賀県長浜市堀部町・石田町にあった城)を守備しました。
1571年(元亀二年)2月、小谷城(おだにじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部にあった城)の浅井長政(あざい ながまさ)攻めのため、秀吉、砦(とりで)の資材を信長より受け取りました。
9月、比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山)を焼き打ちしました。
1572年(元亀三年)9月、秀吉、浅井攻めのため、虎御前山砦(とらごぜんやま とりで=滋賀県長浜市中野町にあった城)を守りました。
1573年(天正(てんしょう)元年)7月、信長は、足利義昭(あしかが よしあき)を降伏(こうふく)させ(槇島城(まきしま じょう=現在の京都府宇治市槇島町にあった城)の戦い)、
秀吉は信長の命で、河内国若江城(かわちの くに かわえ じょう=現在の大阪府東大阪市若江南町にあった城)に送らせます。(室町幕府の滅亡(めつぼう))
8月、小谷城(おだにじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部にあった城)を落城、浅井氏は滅(ほろ)びました。信長は秀吉に北近江三郡(きたおうみさんぐん=伊香郡、坂田郡、浅井郡=(現在の滋賀県長浜市、米原市、彦根市鳥居本地区))を
与(あた)えられ小谷城(おだにじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部にあった城)主となり、羽柴(はしば)と改名しました。
1574年(天正二年)1月、越前敦賀(えちぜん つるが=現在の福井県敦賀市)に出陣する。この春、近江今浜(おうみ いまはま=現在の滋賀県守山市今浜町)に城を築き、城主となりました。
9月、信長の命により、羽柴筑前守秀吉(はしば ちくぜんしゅ ひでよし)と名乗りました。
以上諸説あり。