ここでは、長篠の戦い(ながしののたたかい)(1575年)から安土城(あづち じょう)を築城開始する(1576年)まで勉強します。
1575年(天正三年)3月、公家(くげ=天皇)・門跡(もんせき=皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職)の徳政令(とくせいれい=徳政を行うために発布した法令)を世間に広く告げ、知らせしました。
5月、徳川と連合して、長篠の戦い(ながしののたたかい)で武田軍に勝利しました。
7月、家臣に名字・官途(かんど=役人)を与えました。そして家臣からの尊称(尊敬の呼び名)を「殿様(とのさま)」から「上様(うえさま)」へ変えます。
8月、越前(えつぜん=現在の福井県北東部)一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)を殲滅(せんめつ=すっかり滅ぼすこと)しました。
9月、明智光秀(あけち みつひで)に丹波(たんば=京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)平定(へいてい=敵や賊を討ち平らげること)を命じました。
10月、石山本願寺(いしやま ほんがんじ=現在の大阪城本丸の場所)と和睦(争いをやめて仲直りすること)しました。
11月、右近衛大将(うこんえのだいしょう=位階の従三位相当。右近衛府の長官)に任官(官職に就くこと)しました。信忠(のぶただ)へ家督(かとく=あととり)を譲渡(じょうと=ゆずる)し、尾張(おわり=現在の愛知県西部)と美濃(みの=岐阜県南部)を与えました。
公家(朝廷に仕える人々。公家衆)・門跡(もんせき=皇族・貴族などが住む寺院)へ新地を給付(与える)しました。
12月、武田氏内通(ないつう=味方がひそかに敵に通ずること)の嫌疑(けんぎ=内通の疑い)で水野信元(みずの のぶもと=家康伯父)の父子が切腹しました。
1576年(天正四年)1月、現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦に安土城(あづち じょう)を築城開始しました。2月、安土へ移りました。5月、石山本願寺(いしやまほんがんじ)を攻め、天王寺砦(現在の大阪府大阪市)の戦いを行いました。
7月、毛利水軍(もうり すいぐん=瀬戸内海(せとないかい)で活躍(かつやく)した毛利氏直轄(ちょっかつ=直接支配)の水軍)に木津川口(きづかわぐち=現在の大阪市大正区)で敗れました。
11月、伊勢北畠(きたばたけ)氏一族を粛清(不正者・反対者などを厳しく取り締まること)、正三位(位階の一。従二位の下、従三位の上)内大臣(官職の一。)に任官されました。
以上諸説あり。